書いてはみたけれど


登場人物がとても魅力的だった半面、ドラマの起伏に物足りないものを感じました。

基本設定を語らなければならないとはいえ、人間界へ赴くまでがやや冗長、逆にその後の展開はやや急ぎすぎたのでは。


ストーリーの柱の一つであった課題、そしてその答え。
大事なものが抜け落ちてはいないか、そう感じました。
旅人はどうやって「少女は果たして天使なのか悪魔なのか」を知るのか。
それがなければ、結局どちらの道も選べない。


クライマックスの歌へ移る直前、セリフが一つ抜けていたように感じました(10/16夜公演)。
「私は悪魔だから」
あの場面、リリーが絶対に言わなければいけなかったセリフではないでしょうか。
最後の試験を控えた練習の場でも天使役をやりたがった半人前の悪魔が、自覚を持って悪魔として行動する。情としては理解できる展開なのですが、観客というのは先の展開を読みながら見ているものでもあって、「彼女には悪魔の自覚が芽生えているはず・・・ほらやっぱりその通り」と安心させる一言がほしかった。実に残念です。


もっとも、悪魔の自覚を持つべきキャラクターは他にいました。
セレンです。
元天使の悪魔。しかもどうやら天使に戻るという選択もできるらしい。
そのセレンがどちらを選ぶかの苦悩、その果ての自覚、そして最後の選択。もしかしたら選択に殉じるのでは、という想像もできました。
そんなセレンの姿に、リリーや他のキャラクターが「自分は何者か」を己に問いかけ、その結果リリーはもちろん、たとえばアシラは元々持っている思いやりの心を少しだけ前に出す、メルは弱気を克服する、オリアは真のリーダーシップを獲得する、・・・・そんな感動的な成長のドラマを導く可能性を秘めたキャラクターでした。リリーと並ぶ主役になれたはず。
しかし、設定はいつの間にか忘れ去られ、後には彼女の出自が他のキャラクターと違うことを強調するための(と解釈しました)ズーズー弁が半ば笑いをとりにいくためのギミックとして残ったのみ。マクガフィンと受け止めることはできず、目の前に広がっていた風呂敷が風で飛ばされたような気持ちでした。


リリーとセレン、主役が二人いるかのような作劇は、観客の混乱を招き、上演時間も延びたはずで、リリーに絞った作劇も悪いとは思いません。
それでも、これだけの人物設計があればもっと深い感動を味わえるドラマがあったはずだ、という残念な思いがどうしても消えません。


釈迦に説法ですが、ドラマとは登場人物が開幕時とは違う自分へと移動、成長、変化、もっといえば「変身」していくことであるはず。印籠一つで越後の縮緬問屋の隠居が先の副将軍に変わり、威張りくさった悪代官が平身低頭するからより強いカタルシスが得られるわけです。
カーテンコールでひとしきり盛り上がった後で、さて誰が変身したのかな、と思い返していきました。
誰かそういうキャラクターがいたのでしょうか。
5人が卒業できた。形式上はその通りですが、半人前から脱皮したことが伝わってきたキャラクターは皆無です。5人はもとより、その他のキャラクターもストーリーを進めるための存在でしかありませんでした。
セリフ一つ、場面一つの出し入れで完成度を高められたような気がしてなりません。



演奏含めた全出演者の熱演に感謝します。
成長したのは劇中の誰でもなく、演じた℃-uteでありロマトラ役の5人であり、みつばちまきはただの「ダンスの先生」じゃないぞという表現者としての存在感を見せた。それはそれでファンとして実に喜ばしく感動もするのですが、それでいいのか、という疑問は今も消えません。
実は劇そのものが℃-uteの成長を時に促し時に表現するための大掛かりな舞台装置であった、ということにようやく気がつきましたが、それでも、プロットを読めば用が足りたかもしれないものにお金を払ったとは思いたくないのです。


徹底的に追い詰められたところからの大逆転が感動を呼び、登場人物のほとんどがそれまでと違う自分へと変身を果たした『携帯小説家』、まるで異なって見えた3人の女が実は・・・というどんでん返しに驚かされた『ロマンチックにヨロシク』に比べると、やや残念な思いが残ります。次回作があるならば、今度は太田ワールドで翻弄され、それでもなお揺るがない℃-uteを見たく思います。

・・・という文章をプリントアウトして、アンケートに添付して発送しようかと思っていたんですけど、こりゃどう見ても推しが主役をもらえなかった矢島ヲタの愚痴と八つ当たりだわな(笑)。


淡い期待の覚書 『うすぼんやりとしあわせだ』:泥酔日記

淡い期待の覚書 『うすぼんやりとしあわせだ』:最後の泥酔日記
太田さんが5人に能力、センス、魅力、将来性を感じてくれたことはわかります。
だから、なのかもしれない。
5人それぞれの魅力や能力を最大限に引き出し、伝えようとしすぎたのでは。そんな気がしてなりません。
それらを伝えるために、「太田善也」が引っ込んでしまった。


魅力的な℃-uteに、太田善也がどう対抗していくのか。
その部分が薄かった。なんとなく残る不完全燃焼な気分の根源はそこかもね。