さらにツッコむなら

いぬいぬさんの他は興味のある方だけ読んでください。
もちろんネタバレあり。面倒なんで行稼ぎしませんよ。


>眞賀里さん
携帯小説家』でも感じましたが、屈折を抱えながらツッパって生きてる女性を演じてもらうと抜群ですね。それからクライマックスの「心が折れた赤いヤツ」役も思わず目頭が熱くなるものでした。

それと比べると℃-uteは随分と下手に感じました。いや、というか、雑に感じましたね。いや、そう見えるだけかもしれないけど、そう見えないようにするのが演出テクニックなんだろうなあ、と、ふと思ったり。

パンフレットを読んでいて気になったのが、川原万季さんの、

そして今回のこのお芝居の作・演出は私にとって人生初のとても大きなチャレンジでした。

のくだり。これだけでは「作・演出が初めて」なのか「役者が本業じゃない人を迎えたものを作るのが初めて」なのか、はたまた別の意味なのか判然としません。こういう悪くいえば「中途半端」な文言をうっかり書いてしまう「分からせる努力の不徹底」が作品にも出ちゃった、ということも考えられます。「わけのわからないもの」を目指す僕の文章じゃないんですから(苦笑)、伝えるものがあるのなら間違いなく伝えてほしいです。


ゲキハロって、何か「全員均等に出してくれ」指令でもあるんですかね?
あるいは「みんな良い子でお願いします」みたいな。

「なるべく出番が偏らないように。そして悪役は演らせない」程度のものはあると思います。その要因の一つは客の反応でしょう。あるいは「客の言うことを聞きすぎる」姿勢かもしれませんけど。

まいまいは最初は損な役回りかなと思ってたら、尻すぼみで消えちゃった感じですし。

今回違う意味で一番損したのは彼女でしょう。占いを信じないキャラが舞美とかぶったし、ラストに転向する動機づけが不明確(雰囲気としてはわかるし、説明されたらかえってうっとうしいですが)。個人的には寝るキューや普段の℃-uteでのまいまいみぃ〜姉妹の印象が強すぎて「梅さんと姉妹に見えない」のもマイナスでした。


それと、歌だと鈴木・矢島ツートップなんだけど、それを演劇に持ち込むのってどうなのかな?ってのもある。
その考えから変えないと駄目かも。

現状で二人を主役級にしないと観客動員が・・・というのはあるかもしれない(僕の周りにそういう心の狭い人がいないので、あくまで想像です)けれど、せっかく演劇に挑戦してるのだから歌ではやらないこともやってほしいですね。利益はグッズとDVDで出せばいいんですよ(苦笑)。


>配役
梅さんの占い師はハマるかも。サーシャはうちら界隈で大ブームですが(笑)、重要な役どころで必ずしも大人でなくてもかまわないものはメンバーにどんどん振っていくべきでしょうね。いつまでも7人なり6人なりを一つの主役グループとして扱っているとパターン的に限界が来るのは早いでしょうね。

眞賀里さんの役は矢島ならどうなっただろう?

その新境地は見たかったなぁ。想像しただけでクラクラします(笑)。実現してたら号泣通り越して客席で失神してたでしょうね>自分。
というか、もしかしたらこの芝居は7人→6人で一から作り直したんじゃないかと思ってるんですよ。7人であれば、もしかしたらもっと彼女たちの描写がもっと増えて、眞賀里さんは舞美のお父さん的な「子供たちと折り合いの悪い先生」で、実際に眞賀里さんが演じたような「占いにハマってみんなを振り回す」役どころは有原栞菜ではなかったかと。いやクライマックスで彼女のイメージカラーを着てたことからの妄想ですけど。おっと、実際の出来とは関係のないことだしこのくらいにしましょう。


僕らが思っているより配役や性格設定の縛りはきついかもしれません。これを破るには作・演出に相当なビッグネームでも呼んでくるほかないのかもしれませんが、事務所のいうこと聞かないかもしれない人を呼んでくることは考えられません。ということは、悲しいことながら「orz」になることは覚悟していないと。

鈴木と有原

もはや寝るキューは僕らにとってファーストガンダムくらいの大事なものになっているのでフラットに語ることはできないわけですが(苦笑)、未だにこの二人が並ぶと「ノリマツとイシゾーキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!」という気持ちになります。それだけキャラが立ってたし、印象付けることに成功したのが寝るキューだったということでしょう。FCイベントでの「真冬の寝るキュー」の影響もありますが、今でも寝るキューで7人が演じた8人の役名はソラで言えますからねぇ。携帯小説家は舞美と梅さんの他はあいざわ元気氏くらいです(笑)。


僕は(見た日のエントリに書きましたが)「℃-uteゲキハロはそれぞれの劇作家・演出家による℃-ute論」だと思っていて、これまでは僕らの見てきた℃-ute像に沿ったものだったわけですが、そろそろ軽く(この匙加減が難しい)揺さぶりをかけるものも見たいです。『携帯小説家』では「彼女たちも現代の女のコである」ことにも軽く触れられていて、そこが好きなところでもあります。