戦場を駆けぬけた女戦士の真赤な青春

从;・ゥ・从<シャリバン42話か あたしゃベル・ヘレンか
そういやぁ、あれも「矢島さん」でしたなぁ。
そんなわけで、去る5/27に『らん―2011New version!!―』を見た感想を、拙者なりに書いていくでござるよ(ドロロ兵長の声で)。
ネタバレは気にせず書くので、適宜ご注意いただきたく。行稼ぎもしてないよ。




いきなりエピローグ! ダグラムか! 

という冗談が喉の奥に引っ込む立ち上がりで、初演を見ている者にとっては最後に残った謎が早々に解決される。これだけで「再演ありがとうございます」という気分になること間違いなし。
生き残った者はただ生き残ったにすぎず、無傷であるはずがない。そんな当たり前のテーゼが胸の痛みとともに迫り、その痛みが、1年前に初めて出会った、あの哀切極まりない物語のあれこれを甦らせる。内容はエピローグなんだけど、これは最後には持ってこれない。最初でやるしかないよね。
初演を見ていなくても、この導入には間違いなく引き込まれていたはず。初演どうこうを横に置いておける名シーン、熱演から始まるという贅沢さ。


サブキャラクターの人物設計がどんどん掘り下げられ、それに伴ってサイドストーリーが同時進行し、人間模様が渦巻いていく。魅力あるものはより魅力的に、そうでないものはそれなりに・・・違う、より悪く憎らしく。これがnew versionの魅力の一つでしょう。石影ちゃん月影ちゃん兄妹と手下の皆さんの物語は本編に負けない鮮烈な印象を残して、例えていうならショッカーの大幹部と怪人軍団的な皆さんだったのが、ランバ・ラル大尉にハモンさんと部下の方々くらいの存在感に様変わり。こんな魅力的な敵役が全体を面白くしないはずがないわけですよ。お殿マンが相変わらず(笑)だったのも逆に彼らを引き立てていたと感じましたし、かえって不気味でしたね。無邪気な邪気といいましょうか。
新キャストの月影ちゃん、ちょっと声が高くて聞き取りづらいところもあり、そこは初演の新井みずかさんに軍配を上げたいところですが、表情といい動きといい、強く美しく恐ろしいもう一つの「毒の花」を舞台に咲かせることには成功した、いや単純に大成功だったと思います。


村長親子の隠された背景も味がありました。それでいてキャストが変わった弥之助は、石影ちゃんたちが人間味を増した分、村サイドの敵役としてはこれ以上ないくらいパワーアップ。初演版ではお綾への深すぎる思いが狂気スレスレまでヒートアップしていくくだりで「こいつはこいつで哀しい奴なんだなぁ」という気持ちにもなりましたが、もう共感も同情もしづらい感じ。「すでに一度は見ている」という再演の宿命も何のその、幼少期の因縁もしっかり描かれ引っ張られて、キャラクターがより際立っていました。


お綾・お加代・お璃空*1の一の村女性陣。熱演また熱演で、セリフのたびにまるで和田勉が撮ったドラマのように目をむき絶叫するものだから、時々何を言ってるか聞き取れなかったりもあった(座席位置の関係も無視できない)けど、そこはご愛嬌。
初演では「いつの間にか消えた」印象もあったお加代・お璃空の退場も見せ場が用意され、お綾はまた一段と深みを増したというか、もう深夜の競馬番組でニコニコしてた「工藤里紗」のイメージは何億光年もの彼方へ飛び去って、完全に「お綾」以外の何者でしかなかった。もしも物置の段ボールからあの番組を録画したVHSテープが見つかったとして、今見たら「お綾キター」という反応になるだろう。
これなら、僕ら目線とは逆の意味で「らんを工藤里紗が演じていたら」というifは語られなくなるに違いない。今後、仮にさらなる再演があって、万が一らんのキャストを変えるようなことがあっても、一の村ではお綾と徳兵衛だけは変えたくても変えられないキャストになるかもしれない。
恐らくはらんとの差異をより明確にすべくとても気を遣って表現されていたと思うんだけど、お綾は戦闘シーンで劣勢に回ることが多かったように見えた。だからこそ最後の最後での正太郎の選択が説得力を持つ。あまりに自然すぎて「気がついたら終わってた」感じになってたけれど。


ともに新キャストで登場した、らんを巡る二人の男、正太郎とイタチ。
正太郎は、優しすぎることが悪い方悪い方へ転がって自分も周りも追い詰められ、苦しむ様子がさらに迫ってきました。二の線・三の線で分けるなら、初演より「二」の割合が少し増えたかな。誰にでも優しいというのは誰にも優しくないということで究極の利己的な態度ではあるのだけど、自分の記憶に間違いがなければ、彼の血縁者というのは登場していない(すでに死んでいる?)わけで、10歳までにベースはできていたにせよ、そんな境遇で生きるうちにああいう生き方になっていったのかもしれないし、とにかく彼は彼なりの落とし前をつけた。それは認めてあげたい。
イタチ。卑怯を標榜する割に徹底できない誠実さ、人のよさがより強調されていた感。もしかしたら、実はこれといって取柄のない男だったのかもしれない、ただ、らんが好きで好きでたまらないことのほかには。だからこそ、それを貫いて生きた。彼にしてみれば正太郎こそ殺したいほどに許せない者であっただろうけど、らんが悲しむだろうから、らんに間違いなく嫌われるだろうからそれはできなかった。



・・・そろそろ、主人公の話をしてよろしいでしょうか(笑)。いや、「主人公って誰?」と落ち着いて考えると、ことnew versionについては曖昧というか、誰を中心に見てもいいし、誰を中心に見るかで変わって見える物語かもしれない。周りが必死で目立たせなくても、主人公としての存在感を獲得したのだと都合よく解釈しておきましょう。
それはともかく。


らん。


こんなにも切なく、痛ましく、いとおしく、・・・こんなにも「かなしい」笑顔があろうか。
初演で観客の胸を締めつけた姿は変わらず、再演効果も含めて「矢島舞美」と「らん」の垣根がより低くなった印象を受けました。それだけ僕らも冷静に見られるということで、役者と役柄の垣根は低くなっても、周りの人物像が掘り下げられた分だけ観客が求めてしまう演技のハードルは上がってるぞ、という状況。
さて、どうだったか。










軽々に結論づけてしまうのは避けましょう。今回もDVD化されるのだから、劇場に行けなかった人も見てほしい。その上で、自分の目と心で、今まで培ってきたあなた自身の全身全霊をかけて立ち向かい、その心に残ったものをあなただけの感想として、『らん―2011New version!!―』を創り上げた者、体験した者たちと自由に交換できたらとても素敵なことだと思います。だからこんな長ったらしいだけの悪文をいくら読んでも、これはヲレの感想でしかないからあなたの感想を形成するには何の役にも立たないんですよ。



僕自身の感想としては、クライマックスの大立ち回りで感じたことを述べておきましょう。



後ろで結んでいた髪を下ろして最後の戦いの場に現れるらん。



これが、

こうなった感じを思い出してしまった自分に自分で哀れみをおぼえますが、それはさておき。そういえば初演でも風雲ライオン丸はネタにしたなぁ(参考・・・にしなくていい)。


初演のらんに、たった一つだけ不満があったのですよ。
それは殺陣。殺陣師がOKを出したものだから、と触れずにいましたが、普段のダンスの癖が残るのか、刀の刃が相手の身体に食い込む瞬間、すなわちインパクトの力感が足りない感じであまりにも綺麗に流れてしまい、斬っている、斬れているように見えない場面もあった。
その不満は、二つの意味で解消されました。


一つは、単純に力感が増し、これは間違いなく斬れてるよね、と感じさせるものに進化していたこと。
そしてもう一つ。


初演時にも触れましたけど、あの時よりもさらに迫力を増し、刀より先に相手を叩き斬るかのごとき咆哮。「これはイタチの刀だ」と最期以外は人間の言葉を話さない。
表現上の意味合いにおいて、すでにこの時のらんは人間ではないのですよね。神か悪魔か、獣か人か闇に光る眼、襲えアマゾンジャガーショック、やったぞアマゾン大切断・・・

失礼*2


愚かなる人に死の断罪を与える役割。
血しぶきが彩る殺戮の舞。
舞であれば、それがダンスであってもおかしくはない。


美しい。
恐れをなすほど、という意味合いで使われる(こともあるし、そういう人もいる。ヲレか)「地獄のように美しい」という誤用めいた比喩表現がありますが、美しい地獄があるとしたら、らんが舞う血と殺戮の舞台はそれに近いのかもしれない。
社会の乱を糾し、心の乱れた者を、己自身をも屠るため、嵐となって荒れ狂う、らん。
髪を振り乱して暴れる様が、例えようもなく美しくて、言葉もなく茫然と立ち尽くす。座っているけど。
観客もまた、らんという嵐に飲み込まれ翻弄される。
初演でも感じたことではあったけど、あの時は最前列だったから感じられたものだったかもしれない。
一人でも多くの観客を嵐に巻き込むためにああいうセットというか花道を設置できる劇場を選び、客席と舞台の物理的心理的な垣根をぶっ飛ばしたのではないだろうか。そういえば弥平さんは舞台や花道のみならず客席通路も走り回って、RUNしていたな。


世界を滅ぼすか自分を滅ぼすかしなければ収まりのつかない心がようやく静まって、最期に人の心を取り戻す。
ここで、奇跡的な表現が舞台上に現れました。
舞台後方に下がったらんが、こちらに向き直る。


乱れた髪が、流れる血に見えた。


そう思えたら、瀕死のらんの姿が、自分のものか斬った相手のものか、とにかく血に塗れて見えるわけですよ。身体から流れ出る様子さえ見えそうだった。
初演時よりもずいぶん伸びた演者の髪が、まさかこうなるなんて。
このジャンルには詳しくないんですが、舞台って、演劇って、こういう奇跡がよくあるんでしょうか。だとしたら恐ろしいな。


初演のDVDをあらためて見てみたのですが、このシーンでのらんの印象がものすごく違うものになっているんですよね。初演では村人たちに絶望し彼らを見捨てていったように映ったのが、今回は「哀れみ」の雰囲気が加わっている。小説はまだ読んでいないのですが、ここがどうなっているのか楽しみです。



舞台上のエピローグ。登場する人数がしっかり減っているところが心憎いし、暗澹たる未来を思わせて震える。
メカケ1号2号(お政、お稲)が完全に無傷で残っていて、下手したらお殿マンよりピンピンしてるのかもしれない姿には戦慄を禁じえませんでした。きっと城で留守番してたんだろうなぁ。
村人は大勢死に、田畑を維持し作物を作り続けていくのはこれまで以上に大変になるだろう。だから年貢も上げられちゃった。
お殿マンの軍勢も壊滅状態。もし近隣の国に攻め込まれたら、都に帰るどころじゃなくなっちゃう。
でも、きっとメカケ1号2号のような人って生き延びていくんじゃないか。そんな気がする。戦わない者が一番強いってこういうことか。微妙に違うような気もするけどまぁいいや。



学生の頃だからもうどれくらい前になるのかわからないけど(苦笑)、ゼミで『誰が為に鐘は鳴る』(1943・米)を見るから事前に原作の『誰がために鐘は鳴る』(アーネスト・ヘミングウェイ。訳者は忘れた)を読んでおけ、という課題が出たことがありまして。
学校が水道橋だったので帰りに神保町まで歩いて新潮文庫の上下巻*3を買ったはいいけど、なんとなく文章のリズムが自分と合わなくて読みづらい。
そこで、こいつなら少なくとも映画は見てるだろ、という当時の友人に電話したわけです。
「『誰が為に鐘は鳴る』ってどんな話?」
こちらとしては舞台とか登場人物とかストーリーとかそういう返答を期待したのですが、返ってきたのはたった一言。
「信じる者は救われない、って話だよ」
授業やらレポートやらが悲惨な結果に終わったのはいうまでもない(笑)。


その友人の言葉が正しかったかどうかは、映画を見た記憶が残ってない(途中で寝ちゃったかもしれない)ので未だに判断つかないのですが、『らん』もまた、「信じる者は救われない」のようなちょっとニヒルな視点が垣間見える物語だったかもしれないとも感じるわけですよ。
「勢いで突っ走ると取り返しのつかないことになるよ」
とでもいいましょうか。ただそれは、ヲタクの習性として斜に構えればそう解釈もできますよ程度のことで、破滅に向かう人々を描く視点はあくまでも優しく、そして哀感が漂う。


誰もが、何か目に見えない大きなものに導かれたかのように、運命の坂道を転がり落ちていった*4
武力や権力のあるなしに関わらず、人間には逆らえない大きな嵐、そんな「らん」の物語でもあったのかもしれません。
でも、「勝ったのは自分たちだ」と胸を張るナズナハコベの姿に、
「流されるな。流されなければ、誇りだけは残る。それは絶望しなくて済むということだ」
そんな熱いメッセージが込められている。これは間違いでないと思いたい。



前進座劇場の楽屋口というのは観客の出入り口と隣接していて、僕が外へ出た時にはカブト役の藤沢さんだったか、メイクも落とさぬままでお知り合いと思われる観客の感想に耳を傾けていました。
いい芝居を見せてもらったお礼でも、と思いましたが、面識があるわけでもないから自重。こっそり目礼だけをして、ま、渥美清さんはいい芝居を見るとあえて楽屋に寄らず帰ったって何かで読んだし・・・と不遜なことを胸でつぶやきつつ帰路についたのでした。いやヲレ俳優じゃなくてただの観客じゃんよ。

*1:すごい名前よねこれ。なんとなく「先祖は高貴な生まれだったのが落魄し流れ流れて・・・」みたいなものがあるんじゃないかと思わせる。

*2:人としてあろうとすることをやめている、という意味では、この時すでに死んでいるともいえましょう。

*3:先日ブックオフで上巻だけ買い取られた、というのがこれ。

*4:正太郎が崖から「落ちる」ことで赤谷にたどり着く、というのも、谷だから当たり前なんですが、何か暗示めいたものを感じないでもないですよね。