今日の『らん』

ちょっと物語の本筋とは違う話をしますけど、例によって例のごとくでお願いします。



ラストの大立ち回り。
らん、そして彼女を護る者たちは、オトノマン勢と村人たち双方を皆殺しにすべく戦う。
他人を虐げて何の痛痒も感じない者、己の利ばかりを考える者、一度は希望を与えておきながらそれを平気で奪い省みることをしない非情な者への絶望と憎悪。


その物語、その心情、感情が、矢島舞美と同じ姿を持った少女によって示されるとき。
舞台の上のフィクション。そして僕らと矢島舞美との間にある約束事。その間の壁までもが切り裂かれていく。


矢島舞美がアイドルと呼ばれる業務を遂行できなくなったとき、僕らの知る姿でない、という意味で「矢島舞美が『矢島舞美』であることをやめたとき」のメタファーであるかのように、僕の心を締め上げていく。


今まで、何度見てきただろう。
僕らがアイドルとして遇し、それなのにいつの間にか忘れていった女性たちが、かつての自分とその周りを取り巻くものを、決して快いものではない、それどころか忌まわしいものであったかもしれない記憶として語り、「実はあの頃・・・」と暴露話をすることで、自分を捨てた者たちへ復讐する姿を。


ごくごくわずかな例外を除けば、どれだけ愛されたアイドルもいつか終着点を迎える。
そして、その終わり方は多くの場合後味の悪いものになる。
比喩的な意味で、死屍累々。太川陽介。それはルイルイ。冗談いってる場合じゃない。


その後味の悪さの、もっとも最悪かもしれない形での疑似体験。
最悪なんだけど、この容赦も遠慮もなさすぎる表現がなければ、ここまで深く心に斬り込まれることもなかっただろうという想像はできる。



中盤以降、すなわち村人からの最初の裏切りに遭ってから、らんはずっと本心を明かさなかった。常に何かを心に隠し、泣きながら人を斬っていた。本当に救われたかったのは、救世主と持ち上げられたらん自身だったのだ。
そして、彼女の戦いが終わる時。彼女自身にも止められないほど荒れ狂った心が静まり、もっとも悲しい救済が訪れた時。


心にしまっておいたものを解放し、呪詛の言葉を笑顔で吐いて、手の届かないところへ去っていく。堂々と。


世界のすべてを見捨てて、らんは消えていった。


僕は、自分がらんに、矢島舞美に見捨てられたような気になった。錯覚といい切る自信はない。



これは物語を創った人たちの意図したものではないだろう。ゲキハロならまだしも、少なからぬ固定ファンを持つ劇団の本公演において、アイドルに釣られてやってきて、次の公演にはほとんどが足を運ばない程度の観客にしかわからないネタを仕込むはずがない。明らかにズレた解釈なのは自分でもわかる。


ただ、今も心に残る重さの源を探していくと、こういう風に受け止めることもできるんだよね、ということ。普遍的なものを、個人的なものに捻じ曲げて受け止めただけの話。だからこの解釈は正しくないのよ。わかりましたね。


奥が深いなぁ。
重さといっても決してネガティブな感触ばかりじゃなくて、何かとても大事な、目を背けてばかりいちゃいけないことを見せてくれたような、そんな清々しい気持ちもあって。
これが、深い感動っていうやつなのかな。
少なくとも、僕(たち)にとってこの物語は、ただ130分のお楽しみのようなフィクションではなかった。生き方すら変えてしまいかねない大きなものを見せ、残してくれた。


あらためて。
ありがとうございました。