ひとがぞんびでぞんびがひとで

从;・ゥ・从<山中恒先生ごめんなさいごめんなさい
ノソ;^ o゚)<このブログやってる人アタマが悪いもんで














なぜか、あのエントランスでの攻防戦が「刺さってる」んですよねぇ。
一日考えました。気がついたのは頼まれた夕食の買い物をしてたスーパーで、思わずキャベツに親指突っ込んじゃったので、今日の夕食は大穴ホイコーローです。これはこれで縁起がいいかもしれない、大穴だけに。



女子高生ゾンビは、人間だった最後の時間を思い出して死んでいく。
アイコは、自分の淡い思いごと宅配ドライバーゾンビを殺していく。
人間であったことを思い出して死んでいくゾンビ、人間であること(の一部)を殺して生き延びる人間。
殺す者と殺される者、殺したモノと殺されたモノの倒置。
いやぁ、驚いた。痺れた。こういうことに気がつくまで24時間以上かかるってのは、まだまだ修行が足りないなヲレ。


アイコも、カナブンも、ヤスデも、ゾンビヲタも、社長も。
皆それまでの自分でいられず、生き延びたり滅んだりする過程、その帰結で違う何者かになっていく。あるいは初めから違う何者かであったことに気づかされる。ラストシーンでアイコが衣装替えしてバイクにまたがるのをやや唐突と捉える向きもあると思うけど、それまでのアイコではなくなっていることが丹念に描かれているから、違和感はそれほど大きくない。カナブンの選択もまた然り。アイデンティティの崩壊という点では、彼女もまた外的要因でそれまでの自分とは違うものにされしまった。(以下反転ネタバレ)しかも人間として一度、ゾンビとして一度。ヤスデと二人、人間でもゾンビでもない存在となったわけです。
「殺されていく自分」を回想するシーンがモノクロだったり淡くしたり粗くしたり、映像の味わいを変えて描かれるのも美しく、そして切ない。ヤスデだけちょっと違ったかもしれないけど、カナブン絡みでちょっとあったね。



以前に引用したものだけど、再掲。


 事実、映画の中におけるドラマツルギーにも、対立(葛藤)の弁証法的発展と解消が重要とされている。AとBの対立が物語を発生させ、AとBに表面的な勝敗・決着のゴールをもたらすかもしれないが、その帰結としてAはAでいられず、BもBではない何者かになる。AとBとの新しい関係性樹立が観客のエモーションを共感で刺激し、生理的に解放したときに、それがカタルシス(浄化)に昇華する。

(氷川竜介“「同じ」と「違う」をひとつにする『Ζ』の新訳”『Ζ BIBLE 『機動戦士Ζガンダム星を継ぐ者─』完全ドキュメント』氷川、藤津亮太編著、講談社2005、P222)

ヲレ的ないい回しにすると「ドラマってのは『変身』なんですよ」となるわけだけど、登場人物が見事に全員変身して、ある者は死に、ある者は生きて違う自分となる。
その到達点がバイクをスタートさせるアイコ*1なわけで、目一杯に「エモーションを共感で刺激」された後だから、「爽やかな感動」みたいなものまでおぼえるんですよね。
さらに、そこに主題歌が流れてくる。ホラーだのスプラッタだのにはまるで合わない曲なのに、気分が盛り上がったところで聴こえてくるから気持ちがいい。ただのエンドロールのBGMにしない使い方には舌を巻く思いです。


ジャンルムービーのふりをして、ドラマとしては至極真っ当というか基本に忠実というか、外しちゃいけないものを着実に押さえたものになっていたと思います(脚本・河井克夫)。これから映画を作ったり見たりしていこうという若い人には、苦手でなければ見てほしいです。
「来年の春まで待ってくれ」というのも気の長い話ですけど、半年先に公開するものがもう出来上がってるってことは、国内外の映画祭に出品することを狙ってるんじゃないか、そんな気がするのですよね。ゆうばり国際ファンタスティック映画祭2012なんかで上映する機会に恵まれたら最高だなぁ。

*1:フルフェイスをかぶったってことはスタントなんでしょうけど、こまけぇこたぁいいんだよ!