緊張感

とかくネガティブに語られがちなことですけど、たとえば「気合を入れる」なんていうのはわざわざ緊張することだといえなくもないわけで、ポジティブにはたらくこともあるんだということをこの歳で知りました(遅)。きっかけはゲキハロだったんですけどね。またかよ、とお思いの方が圧倒的多数でしょうけど、よかったらちょっと付き合ってください。相変わらず長いですがネタバレはないので。


席が席だったんで、始まるまで「俺はいったいどうすりゃいいのか」と考えていました。
で、実際にとった行動はというと、
「何もしない」
ことでした。舞台に集中しよう、なんてことすら頭に浮かばず、ただただ見ていました。
普段の現場でも毎回それなりに緊張していて、張りつめた気持ちが一気に解放される客電消灯の瞬間が大好きだったりもするわけですが、シチュエーションの好き嫌いを考える余裕もあったものではなく、普段の僕はあまりにも独り言が多く、暇さえあれば何かブツブツブツブツつぶやいているアブナイ人なんですけど、言葉を発することそのものを忘れたかのようになってました。


じゃあ楽しめなかったのかというと、毎日毎日飽きもせず感想をアップしてることでもおわかりのように(ご迷惑おかけしています)まったくそんなことはなく、逆に緊張感がうまいこと気持ちの足場みたいなものになりました。
劇に気持ちが入っていけたし、気持ちに劇が入ってきました。細かいところまでは入りきりませんでしたが、たとえば巡回してて「印象に残ったシーン」の話を読むとなんとなく思い出して、ホンワカ気分になったり感動がよみがえってきたりしています。とことん緊張すると、逆に気持ちのどこかがちょうどよく弛緩するという現象が起きるのかもしれません。
「舞台に向かって心が開いた」という表現を思いついたんですけど、わかりづらいかな。もしかしたら「無我」とか「明鏡止水」とか、なんていう境地への入り口くらいにはいたのかもしれません。「我、空となりて煩悩を断つ。やああっっってやるぜええっっっ!」でもいいですけど。


この感覚、かなり気持ちいいですよ。新しい世界に目覚めたみたいです。
別に普段の現場で心を閉ざしていたつもりはないんですが、あまりにも自由すぎて、その自由を満喫することに神経が向いてしまっていた可能性は否定できません。
心にできた芯で自分を律することで、よりのめり込める。ダラダラしていたらそれなりにしか楽しめないし、時には不用意なことをして空気が壊れたり、自分または誰かが楽しめなくなってしまったりする。そんなこともあるのかもしれないですね。


この日記を読んでくださっている皆さんには、僕のイメージとして「とにかく度を越して舞美が好きな奴」というものが(面識のない人にまで!)出来上がっていると思います。
これは怖いことです。たとえば僕が何かの弾みで誰かにケガでもさせた場合、いつの間にか話が大きくなって「舞美ヲタが暴力沙汰!」なんて具合に広がるかもしれません。
僕の行動や言動は今や舞美あるいは℃-ute、ひいてはハロプロとそのファンの名誉につながっていると考えることもできるのです。
こうなると「悪いことはできないなぁ」という気分にもなってきます。実際はそうそうクリーンには生きていない、というより悪の誘惑に弱く悪いことから先にやっているようなダメ人間*1なのですが、だからこそ意識して「律する」ことが必要だという理性のはたらきは自覚していて、行動が伴わなくてもせめて気持ちだけは持っていたいなと。それで何かが変わるのかどうかは別として。


そんなうっとうしいこと考えてヲタやるのって楽しい? という疑問を持たれるかもしれませんが、「俺ルール」を勝手に自分に適用してるだけの話なんで、案外楽だし楽しいものです。こんな俺ってかっこいい、とかナルってみたり。ああキモイ。
強制したりされたりだったらきっとやってられないでしょうね。誰かのルールに従うのはお断りだし、自分が誰かのルールになることは辞退します。


ごくわずかなこと、簡単な最低限のラインを決めるだけで、かえって自由になる。
これからの僕にとって、「いい意味で緊張しているか」というのがラインの一つになるのかもしれません。って自分でハードル上げて大丈夫か俺。

*1:そもそもいい歳こいて仕事もしないで専業ヲタクってのがもう最悪という話。