歩いてる

歩いてる(初回生産限定盤)(DVD付)

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今のところ僕が最後に買ったモーニングさんのシングル。
というわけで、もうヲレが書くこともなかろうよ、と思っていたけれどここは℃-uteヲタが偉そうに述べてみるの巻。℃-uteの印象が悪くならないように気をつけたいところです(苦笑)。



思えば、いわゆる黄金厨の皆さんから凋落の戦犯扱いをされ続けてきた5期が、人数は減らしたもののもう10年前後の長きに亘って籍を置き続け活動している。していられる。ならばこの10年は果たして「凋落」だったのか、くらいのことはもっと真剣に考えられていい。
・・・と、ここまで書けばその先はいらないようなものだから、怒られないうちにこれでオシマイ。


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 ずばり、歌謡曲の真髄は「売れる」ため、世間に「無原則に迎合」し、よく考えると、どこか「不自然」だということにある。つまり、ロックなるモノとは、対極の位置にあるものなのだ。
 不自然をしているのが歌手本人であったり、作詞・作曲者であったり、プロデューサーであったり、さまざまな形態はある。
 たとえば、作詞・作曲者が自由な時間や条件を与えられ、天のひらめきから素晴らしく純粋な思いで「作品」が出来たとする。だが、それだけでは歌謡曲にならない。清純でも何でもないのに清純を装う少女歌手に不自然な振り付けをつけて歌われないと、謡曲の毒素が注入出来ず、その純粋な歌は真の歌謡曲とはならないのである。つまり売ろうとするための不自然な努力が歌謡曲としての存在感を生み出すのだ。
 だから資本の論理とは離れた次元で、シンガーソングライターやロッカーが本人の魂から自然発生的に生まれた(かのように見える)歌を、作った本人があたかも魂の声として歌う(かのように見える)フォークソングやロックに謡曲を名乗る資格はない。歌の持っている純粋性(であるかのように見えるもの)が、歌謡曲たる資格を失わせるのである。歌謡曲たるにはこの歌を売ろうとする「わざとらしさ」が見えていなければならない。
 歌謡曲の背後には常に資本の論理が見え、本来の芸術性・音楽性(にみえるもの)にはきちんと妥協し、あたかもマスメディアに魂を売り渡しているかのように見えなくてはならないのだ。じつはそれこそが真の芸術である、という考え方があるかもしれない。だが、歌謡曲は芸術のように気取って見えてはならず、あくまでも愚民どもに迎合しているように見えなくてはならないのだ。


金子修介『失われた歌謡曲−MY LOST DOMESTIC POPULAR SONG−』[小学館エスノブックス、1999]P87-88)

失われた歌謡曲―MY LOST DOMESTIC POPULAR SONG (エスノブックス)

失われた歌謡曲―MY LOST DOMESTIC POPULAR SONG (エスノブックス)

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長い引用で申し訳ないんだけど、この金子監督による「歌謡曲」の定義はなかなか鋭い。
「ダンス・ミュージックとは聴衆を踊らせるための音楽である」なんて書いたらバカだと思われかねないけれど、歌謡曲ならなんとなく許されそうな雰囲気ってあるよね。これも「毒素」ゆえのことかもしれないし、それだけ軽んじられてきた芸能ジャンルだということでもある。
それはそれとして、1999年に上梓されたにも関わらず、それから10年あまりを経た現在の歌謡曲業界、といって広すぎるならアイドル・ビジネス界隈の事象にも当てはまるところは多いのではなかろうか。古書店で見つけたら2000円くらいまでは出しても惜しくない(定価1575円)と思うよ。ちょっと検索したらプレミアどころか半額くらいの出物があったけど。


アイドルってのは従事者やビジネス関係者、そして愛好者だけに留まるものでもなく、「現象」でもある。そして「現象」に参加する喜びが愛好者を増やし、社会的認識を得ていく。
生臭い話をすると、少女隊やセイントフォーまでいかなくとも先行投資がけっこうかかるから、「税金払うつもりで売り出してみっか」というケースでもないかぎりは、極端にいえばブームになり「現象」となってナンボの存在、なってくれないと困っちゃう、みたいなところがあるわけです。だから、単体で「現象」を起こせなければ業界全体でトレンドを作って持ちつ持たれつ、という形もある。
振り返ってみれば・・・ありましたよねぇ、「ハロプロにあらざればアイドルにあらず」的な時期。実際競争相手が皆無に等しい寡占状態だったと記憶します。ルートヨンとかちょっと期待してたんですけどね。まさか半分が少女時代になってたとはなぁ(苦笑)。


光が強ければ影もまた濃くなる、てなことを申しますが、時代の波に乗っていた時期の輝きが強ければ強いほど、またその印象、記憶が強く残っていればいるほど、波を離れ輝くことなくジリジリ歩く姿は受け入れがたく感じるかもしれません。
10年くらい前の栄華が未だに忘れられないってのも個人的にはどうかと思いますけどね。十年一昔なんていってたのは21世紀が遠い未来だと思われてた時代の話で、ハロプロ時間でいうと2年くらいが一昔なわけでさ、10年なんていったら神話や伝説のレベルだよ。
とんでもなく長い時間だよなぁとつくづく思う。そういえば来年はキッズ加入10周年だっていうぜ。


謡曲業界の売らんかな精神を凝縮したもの、という側面も持つアイドル・ビジネスの世界において、ブームが過ぎ「現象」を生み出さなくなって、以前と比べれば「売れる」スケールも小さくなって、そこから10年生き延びるってのは並大抵のことじゃないですよ。けっこう腰を抜かさんばかりに驚いています。いや最近ふとした拍子にミリッとかピリッとかコキッとかいうんで困ってますけれど。冷やすといけないと整体院でアドバイスされたので、腹巻代わりに腰椎バンド巻いてます。


「現象」になる、あるいは生み出すのがアイドルであり、売れるための不自然さこそが歌謡曲の真髄ならば、ハローはすでにアイドルでも歌謡曲グループの集合体でもなく、むしろフォークやロックに近づき、だからスキルアップ主義に変わっていった、のかもしれない・・・という話をしようと思ったんですけど。
別に「現象=社会現象」でもないわな。たとえば制服向上委員会は現在に至るまで大衆レベルでのブレイクを果たしたことはないけれど、メジャーレーベルとの契約が切れる前後から「むしろ客が主役」というムーブメントが勃興して、それが常連客をガッチリつかんだもんなぁ。今はその常連も某電気街方面へ少なからず流れたって話ですが、ここだけの話、実は℃-ute現場で未だに顔を合わせる人がいたりいなかったり。深く交流した人じゃないんで挨拶とかするわけでもないですけど。


ヲレとしては珍しく今の人たちに伝わりやすいかもしれない例を挙げると(笑)、岡井ちゃん関連の盛り上がり、打つ手打つ手がみな当たって、もう岡井千聖の4文字だけでワクワクしてしまうという正のスパイラルは「現象」以外の何物でもないわけです。スタッフと愛好者がかなり勢いづいちゃってるのも「現象」ならではのこと。腐れマニアとしては「現象」になるまでが面白い、という気分が大きいので、個人的に最近は若干引きぎみかも。
これからは萩ちゃんでしょ、と思うんだけど、萩ちゃんは“ペナルティエリア内で相手キーパーと一対一なのにパス相手を探しちゃう”ようなもったいなさがあるんだよなぁ。そこをそのまま伸ばして「アシスト最強」みたいなところを狙うのか、少しずつピン仕事を入れて鍛えていくのか。℃-uteメンバーの育成プロセスとしては後者のことが多いけど、前者でもそれはそれで悪くない。


実力主義で思い出したけど、たとえば「ハローは実力で勝負してるから」みたいな物言いってどこかで聞いたことあるなーと思ったら、ヲレの生まれる前後でいうと「タイガースやテンプターズはミーハー向けだけどゴールデン・カップスは」みたいなものだよね。まぁ嘘ではなかろうと思うけど、タイガースのベースはバカにしたものじゃないらしいよ。岸部修三、現在の一徳さんですけどね。
きっとバンドブームの頃も似たような話ってあったと思う。そういう意味でも、サエキけんぞう氏がどこかで「アイドル戦国時代=バンドブーム」って看破した(らしい)のはお見事すぎるよなぁ。



去年あれだけ業界がこぞってどーんと花火を打ち上げた反動ってのが、いつかはやってくる。今年いっぱいは大丈夫かなぁ・・・いや、体力のないところは早ければ今年の後半くらいから、撤退とかフェードアウトとかネガティブな話題が出始めるような気がしてなりません。
歴史を変えた英雄の最期が時として悲惨なものであるように、上がったものはいつかその場を追われ、多くのものは無残に朽ちていく。
一足お先に降りておいて、なおかつそこで終わらずにひっそりと歩み続ける者の強さ、頼もしさというものは、これから発揮されるのでは。大衆文化のトップランナーに返り咲くことがあれば一種の貴種流離譚の完結としてドラマチックだろうし、そのような展開に至らずとも、一定の支持者を持ってひっそりと生きていくのではないでしょうか。歴史に名を残すことなく、しかし家族や友人との幸せな時間を大切にしながら歴史をつなぎ続けた無名の人々のように。
それはとても素晴らしいことだと、僕は思うのです。