窓とウ○○

「あなたにとって“アイドル”とは?」
なーんて設問が、ブームになることはなかったにせよ、1980年代半ば以降の「語りたがり」なアイドル愛好家(いうまでもなく僕はその尻尾です)の間では繰り返されました。ハロプロ以降の時代(という表現が後世にはなされるという確信があります。根拠はないけれど)にそれが語られることは少なくなって、
「理屈じゃねーよHeartだよ」
とばかりに熱く純粋な思いを持ちそれを表現する人の割合が増えたと思います。僕も今では「あんまり理に走るのもめんどくさいやぁ」という気分が強いですね。そういう意味でもハロプロは「革命元年」なんて痛いフレーズを標榜するはるか以前に革命を実現していたのですよ。
「語りたがり」の人々が一般大衆とアイドルとの間に壁を作ったのかもしれない、という認識が多少はあって、それについては申し訳なく思ってもいるわけですが、本題はそこではなく。






「アイドルは僕にとって<窓>だ」


と言った人がいるそうです。
窓。すなわち「そこから世界を見る」もの。外へ向かって開かれる、開くことができるもの。
直接の知り合いではない人の話ですが、こういう人がいるよ、と聞いたその一言がもう余裕で10年以上も僕の頭を離れないわけで、ということは少なくとも一面の真実は衝いているのかなーと思います。


そういう<窓>を多く持っている人は心にたくさんの光が射し込み、愛情にあふれ、かつバランスのとれた思考を持つのだろうし、少ない人もそれはそれで一点集中で迷わず進むことができる。そんな人々が集まって、
「脇目もふらず迷わずガーッと進もうぜ」
「まぁちょっと足を止めて道端の他界したカエルでも数えようや」
みたいにワイワイやりながら、全体的に捉えるとなんだかんだで何かが「通ってる」よね、という今の仲間たちってのは、一緒にいて気持ちがいいものです。なんか微妙にNSDな表現をしておりますが。






世界が清浄であるはずがない。
上辺だけ取り繕ったところで、地球上に人間をはじめとした動物たちがいるかぎり、世界の半分はその動物たちの○○コの山なのだ。


という言葉をどこで知ったのか・・・なんてつまらないことは忘れました。
まだ若く、今よりももっとバカだった僕は、この言葉で思わず世界のすべてを知ったような気になってしまい、すいぶんと間違った道を歩いたように思います。


世界が汚れているから、なんてのは自分の汚さの言い訳にもならない。
世界をきれいにするために○ン○をひねり出す動物を皆殺しにしようぜ、なんてことが許されることもない。
じゃあ汚れた半分は切り捨てようぜ、でもない。ソレがなければ生きられない命というものもある。
「世の中そんなものだから」とあきらめるのでなく、
「世の中は汚い。だがそれがどうした?」という姿勢。
汚濁にまみれても腐らない。
泥をかぶってなお輝く。
曲がりはしても決して折れない。
僕らの目にするものが美しく輝いているとするならば、それは「汚れを知らない」美しさではなく、「汚れに染まらない」美しさ、強さの輝きなのだと思う。
そういう強い美しさを持っている人というのは、もしかしたら僕らが勝手に思い込んでいるよりも多いんじゃないのかな。


強くなれ。
強くなりたい。