世界が変わった日

greatmaimi2009-11-10

まず初めに。レポをお探しの方は夜魔皇さんのところ、またはKYさんのところへどうぞ。
それから、文中に不要なくらい過剰かつ執拗に性的な表現が登場します。そういう文章を好まない方、「みぃ性」(ノソ*^ o゚)<みぃたんを性的な目で見るんじゃないケロ)派の方はこの先を読まないという判断をされるのがお互いのためかと。






満たされました。
色々な意味で、ほぼ完全に。






まだ髪を短くした舞美のかわいらしさをうまく表現する言葉が見つけられないわけですが、本当に見るたびに衝撃的なくらいの圧倒的な魅力を放っておりました。


席はさんざん自慢していたように最前列でした。歌いながらステージを左右に移動する局面があったのですが、上手側MAXの地点が僕の正面。距離としてはお互いが一歩ずつ踏み出したらハイタッチできるくらい。
目を合わせる(といってもあちらからの目線は来ません)ためには見上げなければなりません。うかつに正面を向いてしまうと・・・


太m(自主規制)0ズレ


という衝撃の事態です。うかつに直視したら鼻出血どころか脳溢血間違いなし。おっと、もちろん医学的およびあらゆる科学的根拠はないぜ。


目の前2mあったかどうかという位置で歌う舞美を見ていて、不思議な感覚をおぼえました。
別に太m(ryに目がいったからというわけでもないでしょうが、いつもにも増して、矢島舞美さんの肉体の存在感というのが激しく迫ってきたのです。
なんとなく忘れられがちなことだよね、という実感のあることですが、矢島舞美さんというのはアイドルという職業を持っていたり僕らの憧れの対象だったり理想像だったりする以前に、まず何よりも現実の肉体を持った17歳のホモ・サピエンスであるということ。
実体として、人間がそこにいる。劇場版ゼータのラストシーンじゃないですが、


(俺)<舞美だけは、幻覚でもなければ、意識だけの存在でもない!


みたいな。
そんなことを考える一方で、というかそのままの流れでというか、とにかくその時の僕の意識は、


(俺)<こうやって、抱くことができるんだから・・・


とばかりに、矢島舞美さんの肉体の存在感というやつを思いっきり抱きしめていました。
キモイ? 認めよう。
脳内かもしれない。でもいつもの脳内じゃない。僕にしか実感できないことだから他人に話して理解してもらえることだとは思わないし、ならばここに書く意味なんかどこにもないのだけど、確かに僕の中の何かが、目の前で歌う舞美の何かと熱く抱擁していたんだよ。


自分がもう10歳も若かったら、己の局部に指一本触れることなく射精していたかもしれない。というか、精神的な部分では間違いなくオーガズムに達していたのでしょうね。
それくらい、僕のオトコの部分が満足してしまったのです。突然に、理由もわからずに。
一般的に用いられる意味合いでの「セクシー」とか「セックスアピール」というほど扇情的でなく、「色気」というほど艶やかでもない。
もっと根源的で当たり前な、文字にすると陳腐ですが、矢島舞美さんが間違いなく「オンナ」であることを100%以上受け止めてしまったような。


こんな感覚はステージでパフォーマンスする女性に感じたことは今まで一度もなく、それどころかベッドの中でも到達したことがないんじゃないかという境地。


矢島舞美が髪を切ったことで、もしかしたら世界そのものが変わったのかもしれない。


それくらいのことは発言したくなるほどの鮮烈な体験。個人的には何か「壁」を突破してしまったような気がする2009年11月10日でした。いいのか悪いのか。たぶん悪いんだろうなぁ(苦笑)。
それくらいの破壊力が、髪を切った矢島舞美さんの筆舌に尽くしがたい愛らしさにはあるのですよ。とにかく生で、できるだけ間近で見ていただきたい。






始まってすぐにもうそんな状態でしたから、半ば放心状態というか、自分が自分であって自分でないような、魂を抜かれてしまったような・・・というところから回復しないまま30分を過ごしました。
サイを振ったり何事か声を上げてたりしてたのは覚えているのですが、それは自分の中でのルーティンを消化していたにすぎないわけで、腰が抜けたようにボケーッと座っていたのでした。
高まりすぎて思わず立ち上がってしまった・・・というのは真剣に高まりきったらできないのかもしれない、「この高まりをどうにかして表現しよう」という意思とか意識とかがあって初めて身体が動くのかなぁ〜、なんてことを今になっては考えるんですが、とてもじゃないけどそれどころじゃない(笑)。
恐らく口は半開き、目はうつろで全体的に半笑いという顔面性犯罪的な、その場に存在すること自体がすでにセクハラ、みたいなご面相でいたと思います。その点は申し訳なく思っています。その点だけかよ。


だから詳しい内容とか覚えてないんですよね。レポを読んで「ああ、そういえばそんなこともあったかもしれない」みたいな(苦笑)。
でも、とにかく始めから終わりまで100%、いや910%「矢島舞美」を思う存分堪能できた素晴らしい時間。
300人前後は入っていましたが、ヲレ的にはヲレと舞美の二人しかいなかったような、あとはちょっと気の利いた書き割りとか妙に手の込んだCGくらいにしか感じられないような濃密なひとときでした。


極めて危険な半トランス状態でしたが、最近「もしかしたらこれが理想なんじゃないか」と考えているところの、


見ない、聴かない、応援しない


という極致に一歩近づいたのかな、とも思えます。
ああ説明しないといけないね。うまく説明できるとは思ってないのですが。


見る/聴く/応援する、で留まらない、「その先」があるんじゃないか、そこを目指していこうよ・・・という意味合いなんですけど、まぁ言葉の使い方はきっと間違っているでしょうね。
CDに記録された歌、あるいはステージに展開されるパフォーマンスから何を感じるか。大事なのはそういうものなんじゃないかと考えると、たとえば曲が好みじゃないとか歌詞が気に入らないとか、あるいはセットリストが不満とか、そういうのって僕には小さなことのように思えるのですよ。
応援しないってのは・・・どうも「応援する」って言葉そのものに「上から目線」を感じるようになっちゃって、なんだか違和感があるんですよねぇ。俺たちって応援してるようで実際は応援されてるわけだしさ。
「応援する」という言葉をうかつに、かつ都合よく使ってしまうのは不誠実なような気がして、暫定的に「味方する」という表現を使おうと考えているんですが、それを伝わりやすく表現すると「応援する」になるんだろうな、というのは理屈では理解しているつもりです。
気分だけの話なんであまり真面目にとらえなくてもいいことなんですが、こうやって三つの言葉を合わせて「三原則」的な標語っぽくすると、ロボット三原則とかあなたを好きになる三原則とか、そんな感じで耳に入ってくるときの感じがいいし、「これ大事ですよ」みたいな気分もなんとなく出てくるよね。


普段はステージを見ながら色々なことを考えたり妄想したりするんですが、そんなこともなく、目の前で繰り広げられるパフォーマンスを無心に受け止め、しみじみと感じ入る・・・そういうことがなんとなくできたんじゃないかと自分では思っています。
よみうりなりキューラン4なりではまた臨機応変にやっていくことになりますが、「着席で夏DOKI」*1という二度とあるかわからないレアな催しでは、こういう観覧スタイルもアリといえばアリでしょうね。まぁ僕の意識の中で行われたことは容認できないレベルだったとしてもだ(汗)。

*1:ジャンプは禁止でしたが立つのまでは禁止されていませんでした。