見せる/語る

結局HNKNにお邪魔しております(笑)。お風呂を済ませて、色々な動画を見ながら軽くえっつんさんお誕生日会、みたいな。


見た直後は気持ち的に妙な状態でわけのわからないことを書きなぐりました(汗)。
比較対象にすべき演劇をまったく見ていないで適当なことを書いちゃいますと、℃-uteゲキハロは「フィクションという装置を使って『℃-uteとは何か』に迫る」とか「それぞれの劇作家・演出家による『℃-ute論』」なのだと感じます。それぞれの「℃-ute論」が自分の感性や価値観、あるいは己の「℃-uteとは」にフィットする人もしない人も出てくるような。それは肯定も否定も呼ぶことになりますが、それはそれで好感が持てる方向性でもあります。でも作る側にしてみれば怖いことを要求されているのかもしれないなぁ。だって「駄作、愚作呼ばわりされる可能性のあるものを作れ」という意味も含まれているわけだし。
僕らは大変なものに接触しているのだよなぁ。


ゲキハロを見た後って、何か語りたくなります。ストーリーのこと、出演者のこと、進行と関係のないところで繰り広げられる「遊び」のこと。もちろん℃-uteのことも。
きっと僕たちも自分たちの℃-ute論というか、自分の目や心に映る℃-ute像を表現したりやり取りしたりをやりたいんだよね。


そんなことをつらつらと考えつつ適当に寝ます。