レコ大振り返り

昨日のコメントにも書きましたけど、手毬唄のパフォーマンスとしてはベストに近いものだったんじゃないかと思います。
コンサートだったらもうちょっと声が出てたかもしれません。さすがに緊張はしたでしょう。でもそれをカバーしてあり余るものがあったんじゃないでしょうか。


あくまでも個人的感覚による印象をもとにした記述となりますが、はじめは「歌わせていただく」ものだったのがいつの間にか名実ともに「持ち歌」になったなと。とにかく歌うだけで精一杯だったのに、今やまるで7人の身体から歌が出てくるような感覚をおぼえました。
ダンスも、「教えられた振り付けの通りに動いてます」というのでなく、身体全体で奏でている。ダンスもまた「歌って」いる。動くことで音が、歌が出てくるような。錯覚といわれればそれまでですが。
贔屓目を通常の3倍の「さらに倍、14・16・4・8・12」くらいふんだんに盛り込みますが「君らよく動けてる。けどそのダンス“歌って”ないのと違う?」と感じるアーティストさんもあの場には少なからずいたなかで、弾むような若さ溢れるパフォーマンスはかなり光ったと思います。


今年1年かけて磨いた表現力は発揮できたんじゃないでしょうか。
涙の色でいきなり難易度が跳ね上がり、手毬唄では舞台が現代ですらなくなるという難関。これをクリアするための研鑽を経て、℃-uteはメジャー1年目を超える成長を遂げました。あまりに急速に伸びてしまうものだから、たまにPVとか見返すとなんか物足りない(苦笑)。


その表現力はフォエラで今年の頂点を極めたわけで、あれで出てほしかった、という思いもないわけではないですが、逆に手毬唄でよかったなと思うところもあります。
℃-uteの出演部分だけを切り出した動画で見るとあまり感じないのですが、他のアーティストさんのパフォーマンスに挟まれた状態で見ると、℃-uteだけ、手毬唄だけ空気が違うんですよね。
それはヘタしたら見ているこちらの居心地の悪さにもなってしまうものですが、「新しいものは常に異端から始まるのだ」と強がりたい気持ちです。
ロックってそういうものじゃん?(同意を強要)。夜ヒットで『い・け・な・いルージュマジック』を歌う忌野清志郎坂本龍一の立ち位置に今℃-uteがいるわけですよ。
他にあるものは他の誰かが歌えばいいじゃん、みたいな「自分(たち)にしかできないもの」へのこだわりと誇り。
フォエラのようなパフォーマンスなら他の人たちにもできるでしょうけど(それでも℃-ute以上のものはできまい、とは思います)、手毬唄は℃-uteにしかできないと思うわけですよ。本来のオリジナルであるはずの五木さんVer.さえ今やパチモンにしか感じられないくらいに。
だったらそれをやらない手ってのはないですよね。


この地上に同じものは二つとない。まさしくワン&オンリー。ちょいと持ち上げすぎ? ヲタブログなんでご容赦を。


これでまた1年℃-uteの歌う場所はあるな。そう思うと単純に嬉しいです。僕らがいくらCDを買い現場に足を運ぼうと限界はありますからね。
賞番組というものがどうやって誕生したのかは不勉強ゆえわかりませんが、「紅白のようにスターが一堂に会する歌番組作ろうぜ」「その年の一等賞を決める、なんてことにすればみんな参加するんじゃない?」くらいの考えはあったんじゃないかと想像します。
スターというものが絶滅の危機に瀕し(僕にいわせりゃみんなアイドルですよ)、老若男女みんなが知ってるような大ヒット曲というのも見かけなくなった昨今(世間の認知度だけでいうなら今年の音楽賞なんてポニョと羞恥心だけで制圧でしょう)草創期の意義というものは限りなく薄れ、音楽ビジネス界のパワーバランスだけが見えるというか公然と語られる(昔は誰も「はいはいナベプロナベプロ」なんて表立っていわなかったしね)のが現状ですが、そこには新しい意義が生まれているんじゃないかと思います。


たとえばうちの両親のような流行歌好きな高齢者も「知らない人ばっかりだねー」と言いつつ見るわけですよ。ちなみに今日はにっぽんの歌を「知ってる人ばっかりだw」と言いながら見てました(笑)。
ぶっちゃけ僕だって℃-ute以外ほとんどの人は知らないわけですが、そういう世間の流行に疎い層に対して「これが今年の代表的な歌ですよ」と錯覚させることだってできると思うんです。
既成事実を積み上げて足場を固める。理想を追う前に現実をねじ伏せるとでもいいましょうか。理想にこだわってしまう僕のような半端者にはできないことです。
公表できないこと、「この件は墓場まで持っていく」というようなこともあるかもしれません。ビジネスの世界ですから、僕らがリアルで体験しているような理不尽なことや納得しがたいこともあるでしょう。
汚い仕事かもしれません。でもその汚い仕事をあの7人の未来のためにやってくれている大人がいることを僕は嬉しく思いますし、感謝もしています。


たくさんの女のコたちを見てきました。歌のうまいコ、ダンスのうまいコ、誰も真似できないような楽曲世界を持ったコ、・・・etc.
ちょっとしたタイミング違いや後方支援の不足、その他様々な要因によって夢を断たれ、歴史に名を残すことなく志半ばにして表舞台を去っていった無数の女のコたちを。
それはそれでマニアの間での「伝説」としてごく少数の「わかる人」だけに通じるネタとして機能するわけで、別段僕にとっての不都合というのはないわけですが、できることならば、夢を持って業界に飛び込んできたコたちにはなるべく楽しく美しい記憶を積み上げていって、去っていくコは笑顔でゴールしてほしいし、続けていくコはひたすら前を向いて進んでほしいと思うわけです。
そして今の僕にとって、そういう風に青春を燃焼させていってほしいと願う存在の筆頭が℃-uteであり矢島舞美であるわけです。


「半年先、1年先の℃-uteが歌えるかどうかがこの1枚にかかってる」
そんな気持ちがあるから、時には給料全部突っ込んで大人買いとかバカなこともやってみるわけですが、それだけでは限界があるんですよね。
僕らができる限りのことをするだけでも、しばらくは活動できるでしょう。でもその先の段階へ進み、もっと大きな舞台で多くの人に喜んでもらえるようになるには、残念ながら僕らにはあまりにもチカラが足りない。
大衆に向けて仕掛けていくためにはメディアを味方につけることも大事だし、足を引っ張りかねないものは可能な限り排除して、味方にできるものは味方にしておくに越したことはない。
そのためには業界に顔を売ったり「実績」として広報資料に載せられるものを用意する必要があるわけですよ。汚い話で申し訳ないですけどね。
ま、そういう話は僕ら大人のところで止めておいて、未来ある若者の進む夢の道はその分美しくあってほしいなと思う次第。


えーと、どうでもいいような話をぐだぐだと続けてまいりましたが。


今年も℃-uteは全力で突っ走りました。
そんな1年の締めくくりにふさわしい舞台、日本中に披露してなんら恥じるところのない最高のパフォーマンスでした。


来年も℃-uteの走る道が希望の光に満ちていることを祈ります。