しあわせ

昨日エディタ開いたままUPしないで寝ちゃったので。


僕は来年また一つの大台に乗るというのに、未だに「理想の大人像」を模索している永遠のお子ちゃまでありまして、たとえば坂崎さんなんか見ちゃうと「ああいう大人になりたいよね」って思います。
いい感じに「枯れて」はいるのかもしれないけど、決して「磨り減って」いない、「消耗」していない、とでもいいましょうか。


消耗する材料って、僕らの周りには色々あると思うんですよ。給料が安かったり仕事がキツかったり思うような結果が出なかったり職場や学校の人間関係がうまくいかなかったり。
僕にも経験があります。「ああもう俺は出がらしになった」と思ったくらい消耗しきりました。
で、その後現場に出ることによってそんな自分の中に何かを「盛り上げる」ことができていったわけです。まだまだ完全に戻ってはいないのですが、これからもどんどん「盛り上げて」いきたいものです。そうすることで、僕ももう一度「消耗していない大人」になるチャンスがあるかなと。


考えてみりゃ僕らは幸せだと思うんですよ。
赤の他人である若い女の子のことを四六時中考えて生きられる。このコたちに喜んでもらいたい、という気持ちで行動できる。CDが売れたと聞けば自分のことのよう(あるいはそれ以上)に喜び、誰かが卒業するとなったら親類に不幸があったかのように嘆き悲しむ。イベントが楽しかったらはしゃぎ回り、それに行けなかったとなればこの世の不幸をすべて背負い込んだかのように落ち込む。
そうやって何かにつけて心を動かすのって、とても潤いのある人生じゃないですか。


人生観は人それぞれですが、他人のことを考えて生きる人生、自分を幸せにしてくれる人の幸せを考えられる生き方というのは案外悪くないんじゃないかと僕は思うのです。


できることなら幸せをやり取りしたい。
「あなたがここにいるから僕は幸せです」
そういう気持ちを伝えあいたい。それが僕たちにできる最大限の返礼だし、そういう人が客席にもっと増えれば、もっと楽しい環境がきっとできると思います。
CDやDVDやグッズにお金を使うことも大事ですが、そこにどんな気持ちを込めるかで使ったお金の価値は額面にあらわれない部分で変わってくる。そういう考えは理想論でしかないでしょうか。


最近客席で叫んだり踊ったりする頻度が減りました。張り切るのは『JUMP』くらいですかねぇ。単純に歳をとって体力面が不安ということもありますが。
声を出したり体を動かしたりすることは楽しいですが、それは「℃-uteのアクトを楽しむ」こととイコールではないような気がします。それをすることで大事な何かがこぼれていまいそうで、感じなければならない何かに鈍感になったりして、昔のようなただのひねくれたアイドルヲタクに戻ってしまいそうな、そんな「恐れ」のような気分もあります。


磨り減った大人にはなりたくないけど、他人の消耗を消費してポイ捨てして、さもそれが当たり前のように平然として省みることをしない、そんな人間にはもっとなりたくない。たとえ自分が消耗させられたあげく捨てられようとも。