まいみーホレホレ団

工エエェェ(´д`)ェェエエ工
ヲレ団長だったのかYO! いや発案者なのは認めるけれど。長野から会場推しとオフに来る団員がいるのに、団長が埼玉の自宅(といってもSSAとはけっこう離れてますが)でミュージックフェアのキャプにいそしんでるとかいいんでしょうか。1回見たらサンシャイン劇場に日参するようになった団員がいるのに、1回しか見てない団長ってどうよ。
以下は個人的などうでもいいこだわり。


ある時期まで僕の中での正式名称は「まいみーホレホレ団(架空)」でして、あくまでも実体のないものにしておきたかったなーという気持ちは、今も少しだけ残っています。
何しろ言い出しっぺですから、実体を持ってしまったら「代表」する立場の一人になってしまうことは目に見えていたわけで。代表するのもされるのも嫌いなんですよ。僕には僕の意思があって、他の人にもそれぞれあるわけで。
責任を負わされたくない、という気持ちもありますがそれだけでもないのです。


いわゆる「軍団」とか「組織」にはしたくないなーという気分がありまして。せいぜい「親睦会」「互助会」のレベルに留めておきたいなと。
揃いのTシャツとか着て「軍団」でございと周りに威圧感を与えながら閉じた盛り上がりをするっていうのは僕の美意識にはそぐわなくて。
組織ができあがってしまうと、組織の論理で考えたり組織防衛を優先させたりしてしまうかもしれなくて、それはおかしなことで。舞美が好きな者の集まりなら優先すべきは何を差し置いても舞美(あるいは舞美の大好きな℃-ute)なわけで*1。それを忘れてしまう可能性はできるだけ排除しておきたくて。
それから、うかつに組織にしてしまうとそこにはヒエラルキーができてしまう。上で便宜上「団長」「団員」という表現を使いましたが、一部の偉い人とその他の人という区別ができてしまうのはやはり美意識上好ましくないという気持ちがありまして。本来の意味でのアナキズム(『アナキズムFAQ』)とでもいいましょうか、そんな気持ちがあるわけです。支配することは辞退しされることは拒絶したいわけです。


とはいえアナキズムもすべての「組織」を否定するものではなく(「A.2.3 アナキストは組織を容認するのか?」/『アナキズムFAQ』)、ヒエラルキーを作らない組織というものがもし実現できるとしたら、自由な意思を持つ個人の、それほど大規模なものではない集まりであるヲタ界隈はもしかしたら実験対象として理想的な社会集団であるかもしれないという感触もないわけではないです。
広くとらえれば送り手の大人たち→演者→ヲタというヒエラルキーは存在しているわけですが、せめて界隈ではそれはやめようぜ、と思っています。ヒエラルキーから脱するにはそれに依拠しない集団を形成することが必要ではないか、なんてことも考えるわけで。


権威主義を廃し、個人が自由な意思を持って協力しあう。あらゆるシチュエーションにおいて「自分は自分の自由な意思で行動する(した)のであって他の誰にも責任を問うものではない」ということができる人たちの一助になるのであれば、まいみーホレホレ団がそういう集団を目指すという合意が形成できれば、団長という呼称はありがたく拝命したく思います。

*1:仕事休んで現場に来いとか食費削ってCD買えとかいう意味ではなく、僕らの(おもに精神的な)利害と舞美や℃-uteのそれが対立した場合は後者を選択したいなーということ。