「アナザー℃-ute」としての『寝る子は℃-ute』

かしましさんほどうまく書けちゃいませんけどね。やっぱ1回しか見てないってのはハンデですわ。しかも見たのは23日でも24日でもないし。


物語というのは、観客には時に現実よりもリアルに迫ってくることがある。そして登場人物にとっては物語の中のことこそが現実である。
℃-ute℃-uteでないものとして℃-uteの出来事をもう一度体験したのかもしれないな、それを可能にするには「演じる」ことが必要だった。そんな風に思う。
なぜそんな回りくどい手順を踏んでまで、℃-uteであって℃-uteでないけどもしかしたら℃-uteかもしれない「アナザー℃-ute」の物語は作られたのか。


「今ここに仲間たちとともにある」ことはとても嬉しくて嬉しくて嬉しくて、幸せで幸せで幸せなことなのだ、それは君たち自身のことでもあるんだよ。


作り手から演じ手へのメッセージとして、伝えたかったのかもしれない。
そして、それは完全に成功した。「失った」悲しみとともに「(それでも、まだ)仲間がいる」ことの幸せを、心の底から感じることができたと思う。
・・・おいおいなんだこの℃-ute愛に満ち溢れたお話は。俺たちまだまだだなぁ。
大人が子供にメッセージするってのは、こういう形もアリなんだな。


悲しい別れの後には、「火消し」と「みんなで力を合わせて困難を乗り越える」ことが待っていて。
その後は、ひと眠りして元気になる。喪失で終わらない、再生の物語。


夏美と会っていない来夏にはピンとこないかもしれないけど、6人にとってはもしかしたら来夏は来夏であると同時に「スズメバチに襲われなかった夏美」(来夏は白い服を着ている)でもあるのかもしれなくて、来夏の向こうに夏美を見ているのかもしれない。
「一緒に・・・組む?」は、8人分の夢を一緒に見ようよ、という誓い。
それは永遠にかなわないかもしれないけれど、永遠に見られる夢でもある。


8→ハチ→スズメバチ、というのはいくらなんでも妄想しすぎかな?