楽園のDOOR

本年初の1万字超え。



自己責任でひとつ。



2011年最後のまいみぃ〜ラジオで『JUMP』がかかったのだけど、


『JUMP』でしか入らないスイッチ、『JUMP』でしか開かない感覚がある。


それをはっきり自覚した。
JUMPスイッチ。運命、連打、夏、かわ彼、魅惑、ピンバカ、・・・メロン記念日がくれたたくさんのものに続く久しぶりのアストロスイッチだね。


メジャーデビュー曲である『桜チラリ』は歌われないコンサートの方が多くなってきたのに、なぜカップリングのこの歌は、今もほとんどのコンサートで歌われるのか。単に客受けがいいからではない、はず。
なぜこの歌がほとんどすべてといっていいと思われるくらい多くの℃-uteファンに好まれるのか。単にアップテンポでノリがいい、歌ったりタオル投げたり振り回したりできる、それだけではない、はず。


未来はいつもここにある。


希望のアンセムだから、だと思うのさ。


紆余曲折の末にメジャーデビューの最初のシングル盤に、未来への希望を詰め込んだ。
そういえば、キューティーショー。遅刻したから生では見られなかったけど、1曲目が『JUMP』で、℃-uteはセットに作られた扉の向こうから、自分の力で扉を開いてステージに現れたはず。象徴的だなぁ。


℃-uteの芯にあるものは、あの時と変わってないんだよな。
自分たちの力と周囲の支えでもって、何かにつけ立ちふさがってくる壁を越え、山を登り、荒波の中を泳ぎ、扉を開き続けているんだ。
僕らが℃-uteを支持するのは、楽曲やパフォーマンスの確かさとともに、その扉から見せてくれる未来の景色があるからだと思うんだよ。そういう部分でも、個人的には他で経験したことのない深い充足感がある。

                                                                                                                                              • -


「ヲタクは若い方若い方へ流れる」といわれ、「好きになるのに年齢は関係ない」と反論する。
若さって何だ。振り向かないことさ。そうでなくて。映画楽しみだなー。
色々な意味合いがあるけれど、単純に「生まれてからの時間が短い」とすれば、逆に、概ねの傾向として「未来の時間が長い」ことだともいえる。
ここに希望を見出す人がいてもおかしくはない。


大人になるって何だろう。
周りが見えるようになること、もその一つでしょう。
現在自分の置かれた状況を的確に判断しよりベターな言動や行動を選択する、ということにとどまらず、自分の過去と未来が見渡せるということでもある。
過去の道のりは大変だったなぁ、未来もきっと大変だろう。
そのように感じて、見えない未来に不安を抱く。
小さい頃、若い頃は周りが見えないから、過去を振り返ることもなく、したがって未来に不安を抱くこともない。
若者の未来には希望しかないのだ。その時間の長さに惹かれる「大人」は必ずいるだろう。
「年齢は関係ない」どころか、大事なのは年齢だけなのかもしれないよ。


思わぬタイミングでの卒業/脱退。その悲しみは、「未来」が断ち切られた悲しみ。俺が客でいる時間より残りが長いはずの(ハロプロメンバー、ケースによっては芸能人としての)○○ちゃんの未来がなんでここで終わるのさ、という慨嘆。
純粋にそうであるならば美しいね。

                                                                                                                                              • -


「未来はいつもここにある」と歌うかぎり、℃-uteは聴衆の希望であり続ける。


℃-uteの2011年。

『負けるな わっしょい!』『甘酸っぱい春にサクラサク』『ブスにならない哲学』を含めても、個人の感想としては、『FOEVER LOVE』『会いたいロンリークリスマス』といった「12月の傑作群」*1には譲るところがあるし、好みでいうならキャンパラ〜バコーン〜会いロンという極限的なラインナップを残した2010年*2に軍配が上がるかな、という気分はないでもない。まぁ『SHOCK!』*3がない分総合的には2011年も悪くない・・・『青春劇場』は近いものがあるけど、これは曲が悪いんじゃなくて(以下自粛)。早く記憶を抹消しなければ。
2010年に築いた℃-ute像に安住することなく、それをいい意味で裏切っていこうと常に挑戦を続けた結果なんだよな。ヲレの好みなんか小さい話だよ。

  • 二十歳前の女の子
  • FARAWAY
  • 偉大な力を!
  • 嫌いで嫌いで嫌い
  • カッチョ良い歌
  • もしも・・・

カップリングも充実してたなぁ。カップリングにハズレなしってどこのメロン記念日さ。個人的に『もしも・・・』は痛くもない腹を探られてるみたいであまり愉快でない気分もありますが*4、悪いものじゃない。「表現」に徹しているから、安心して遊べる。


そう、℃-uteを通して見えるハローの姿というのは、徹頭徹尾「表現者」なんだよな。
自分の内面世界を作品として昇華し世に問う(・∀・)ジサクジエーン、もとい自作自演ではなく、つんくボーイ兄さんをはじめとするソングライター、アレンジャーが作り伝えようとするものを、作品世界の登場人物として生き生きと表現し、同時に自分たちの持ち味も存分に発揮する。「演奏家」に近いのかな、とイメージしてたけど、「役者」の方がニュアンスが近いかも。
一部で酷評されているらしいと聞く℃-uteの新曲だって、『ハロプロ!TIME』でほんの少し流れた映像の部分だけでも「青春」感覚いっぱいの甘酸っぱい情景がまさまざと浮かんできて、たぶんヲレは好きになれる歌だと思う。「一緒に帰らない、帰れない」がキモなんだろうなーと感じた。


「作品世界の表現および伝達」と「己の個性、魅力の発揮」の両立。これが、作品に触れた後で十分な満足を味わえる大きな要因の一つなんだろうな。



「アイドル・ポップスにはラブソングとメッセージソングしかない」
そんなことが、1980年代の終わりから1990年代にかけて、アイドル歌謡に考察を加える場の一部でいわれたものでした。ラブソングとは「好き」というメッセージを伝える歌ですから、「アイドル・ポップス=メッセージソング」の時代があった、といって差し支えないでしょう。
顕著な特徴として、歌い手のパーソナリティが聴き手のそれに対しダイレクトに訴えかける(ように作る)点が挙げられるかと思われます。それは恐らく、
「等身大の魅力」
これが大きなアピールポイントになったからではないでしょうか。そこを強調していくのは、受け手に親近感を抱かせ、強めることでビジネスに結び付けていくためには必須だったでしょう。


この時代を体験している身として昔話をさせていただきますと、いやー楽しかった。微妙な、いや人と時と場合によってはハッキリと外れた音程の歌唱、リズムがとりきれていない振り付けは、勉強も運動も人より抜きん出たものがない自分にとって親近感たっぷりのものでしたし、普段の生活ではお目にかかることのないようなカワイコちゃん(死語)が「好きよ」「元気出して」「負けないで」と歌ってくれるのだから天にも昇るような心地。
そのうちに「クラスに一人くらいはいるような女のコたちが架空の放課後/部活感覚を与えてくれる」ものまで登場し、そりゃあ帰宅部にもなろうってもの*5でございました*6


どこで何を間違えたのか。そもそも初めから間違えていて、不具合が顕著になっただけなのか。
親近感はいつしか優越感に変わり、演者や送り手に徹底的な奉仕、無限の自己肯定を求める受け手の数がどんどん増えていった。確か80年代の真ん中らへんの『よい子の歌謡曲』で、渡辺美里の何かのイベントでファンがトラブった話を読んだような気がするから、アイドル業界だけの話じゃないのだろうね。



しばらくの間、森真一『日本はなぜ諍いの多い国になったか マナー神経症の時代』(中公新書ラクレ、2005)からの引用をお楽しみください。

現代社会で生活している人びとは、「消費者」や「顧客」としてふるまう機会が増大しているのです。ただし、日常生活での私たちの経験をより正確に表現するには、「消費者・顧客」というよりも「お客様」といったほうがよいと思います。消費社会化した現代社会で暮らす人びとは、「お客様」としてふるまう機会や場が増大しているのです。

(『消費社会化の意味』前掲書、第7章『キレる「お客様」』P186〜187)

買い物に行きますと、決して機嫌を損ねたり、不快な思いをさせてはならない「お客様」として、過剰なほど丁重にもてなされます。また、わがまま・横柄・傲慢・貪欲にふるまい、受け身的で、すぐ感情的になり、売る側よりもえらそうにふるまう権利のある「神様」だぞ、といった態度で買い物している人にも出会います。このように、怒らせてはいけない「神様」として、はれものにさわるような扱いを受けたり、「特別ななにものか」であるように接客され、それを疑問視せず、むしろ当然と考えている人を「お客様」と呼ぶことにします。

(『現代社会は「お客様」社会』同、P186〜187)

現代人はこの世に生まれてくる前から、もうすでに「お客様」です。「男女」「日本人」「人間」である前に、まず「お客様」として人生を始めるわけです。
(引用者略)
現代日本の資本主義では、「お客様」として人生が始まり、「お客様」として終わるのです。

(『「お客様」として生まれ、「お客様」として死ぬ』同、P190)

 前章では「ひきこもり」を例にあげて、優等生がいかに自己肯定欲望をかなえられなくて苦しんでいるかを論じました。その章の最後の部分で、もっとも簡単にその欲望をかなえる方法が、自己肯定を買うことであると指摘しました。これはすなわち「お客様」になることを意味します。

(『自尊心を買う「お客様」』同、P193)

どうやら社会的な要因があるようですな。こうなってくるとヲタク一人の手には負えない。適当にごまかしていこう。



アイドルは夢を売る、あるいは与える仕事である、という言い方がある。ヲレの夢は他人から売られたり与えられたりするほど安くないからこれは承服しかねるのだけど、いつの間にか、
「アイドル・ビジネスとは自尊心を売る商売である」
なんてことになってはいないだろうか。己の自尊心を買うためのカネで、相手の自尊心まで売らせようとしていないだろうか。
そんな事実があったとしたら、相当に情けない話だよ。


ふたたび同じ本からの引用。今度はちょっと長い。いい加減著作権法が気になってくるなぁ。


 本書の内容に即していいますと、他者の欲望に対して「さわらぬ神にたたりなし」という「風俗習慣」が定着してきました。それに対し、自分の欲望を抑制すると同時に他者にも欲望の抑制を求めることを「風俗習慣」としてきた人びとがいます。両方の「風俗習慣」とも「理屈ぬきの感覚の世界」に根ざし、「人間の一番敏感な部分に直結して」います。両者が出会い、「いったんがまんならなくなったら、人をも殺しかねない」ことになります。
(引用者略)いったい、「理屈ぬきの感覚の世界」に由来する問題を解決する方法などあるのでしょうか。私にはその解答がありません。
 ただし、現在のところ、この「理屈ぬきの感覚の世界」に関わるトラブルの解決は、警察や企業によっておこなわれる傾向にあります。たとえば、私のように「マナー違反」に腹を立てながらも注意できず、けれども「マナー違反」を野放しにできないと思っている人は、「マナー」を守らせたりトラブルを解決したりするために、最初から企業や警察を頼りにしているところがあるのです。
(引用者略)たとえば、電車や駅であれば駅員に、生活の場であればマンションの管理会社や警察官に、トラブルの解決を頼っています。おそらくこれも「お客様」化の一環だと思いますが、自分たちの力で問題を解決しようとせず、「お客様」として企業や警察から快適さや安全を購入するのが標準化してきているのです。
 もちろん、トラブルの解決は管理会社や警察の仕事の一部なのだから、なにも問題ないではないか、という考え方もできます。また、彼らに任せたほうがスムーズに処理されるのも事実でしょう。
 けれども、一方でますます「お客様」化をすすめてしまいます。私の定義では、「お客様」はわがままで傲慢にふるまい、それでいて「金を払っている(あるいはこれから払う)のだから、だれかがなんとかしてくれるだろう」と受け身的な態度をとる傾向にあります。「神様」として扱われることで自尊心を買い、自分の「聖なる欲望」をかなえてもらうことが、「お客様」にとって最優先事項です。このような性質を持つ「お客様」は、トラブルは企業の従業員が解決すべきものと考えています。ですから、ほかの客がトラブルの解決に関わろうとすると、「オマエにとやかくいわれる筋合いはない!」とその客に対して攻撃する可能性が高くなります。

(終章『たかがマナー、されどマナー、でもやはりたかがマナー』同、P223〜224)

いわゆる「迷惑ヲタ」の問題に際し「事務所や警備の担当はきっちり対処し、そういう輩はいっそ排除してほしい」という意見を見かけるが、それらに対する違和感の理由が、2005年7月10日発行(奥付より)という、℃-ute℃-uteという名を得て間もない時期*7の段階ですでに説明されていたことになるから驚いた。
結局は他力本願、受け身の姿勢。自分で箸を使わずに「あーん」してくれるのを待ってる。
「俺は客なんだから、気持ちよく過ごしたいという俺の聖なる欲望をかなえろ」という意味においては何も変わらない、つまるところ「お客様」同士の主導権争いに見えてしまうのよ。
「迷惑ヲタ」に対するいわゆる「良心的」な人の胡散臭さがここにある。本質的に紙一重なんじゃないのかな。一線を越えずに踏みとどまっていることには賞賛を惜しまないけれど、いったん自分の「聖なる欲望」がかなえられないとなると、もっとも激しい攻撃者に転じやすいのがこういう人々じゃないのか、と疑うくらいの経験は客席でもリアルでもしているし、疑いを晴らす事例にはまだ出会っていない。


何の話だっけ? なんとなく思い出しながらいこう。


観客の「お客様」化と軌を一つにして、いわゆる「荒れる現場」が増えた。そんな記憶がある。
もっともヲレも他人様を偉そうに指弾できる立場ではなく、現在の客席モラルに照らしたら「下に見るわー」じゃ済まない程度に人格を疑われるくらいのことはやらかしてますよ。「自宅に行ってはじめてイチオシ」なんていわれてた時代の話。行ったことはないよ。行こうという者を止めることもしなかったけど。
今にして思えば、これぞまさしく「お客様」意識なんだろうなぁ。いや、今だってCDやDVDやチケットやグッズや生写真の形をした自尊心を買ってるのかもしれないよな。


いわゆる冬の時代を迎え、アイドル・ビジネスが少数の固定客を相手にしたマイナーなものになり、「客の財布が頼りというアイドル」*8が現れてから、半ば必然的に「お客様」化は顕著なものになっていく。
そうなると商売人というのはよく考えたもので、「お客様」の「聖なる欲望」を満たす「利益誘導型アイドル(・ビジネス)」が生まれる。「聖なる欲望」は限りがないから、そういう形態の商売はますます栄え、アイドル・ビジネスの世界も消費社会化が加速することになる。
客はアイドル業務従事者を、アイドル・ビジネスの実行者は客を消費していく。この流れに乗れない者は、客もアイドル業務従事者も弾き飛ばされ、淘汰されていく。金の切れ目、メンタルの切れ目が縁の切れ目。酷な話だね。
冬の時代で終わっておいて*9、「アイドル? そんなものもあったねー」ってのも悪くはなかった、再興を目指しつつも時代の仇花としていったん葬る道もあったんじゃないのかな*10
そんな風に思えるくらいのものが、今この時代にはあるよ。


アイドルになりたい、と思いを募らせ*11、とにかく業界の門を叩くというのは、なりたい自分があってそれに近づくため、自分の自尊心や自己肯定の欲望を満たすためじゃないかと想像するわけさ。それがいざステージに立ってみれば客の自尊心を満たすための仕事に明け暮れ、自分のそれは一向に満たされない・・・そりゃあ誰だって迷うよな。
「女性アイドル3年限界(定年)説」ってのがまことしやかに囁かれてきたけれど、あんなものは「3年くらいで耐えられなくなる」だけの話、あるいは「ギャラが上がって費用対効果が薄れてきたから新人に切り替えよう」という企業コストの話でしかないんだよね。安く買いつけられるからと外国ドラマで枠を埋めるテレビ局みたいなもんだ。
成り手はいくらでもオーディションを受けにくるから企業は困らない、別の会場にいけば別の推しがいるから客も困らない。あとには少女の夢の抜け殻と、満たされない自尊心が残る。ひでぇ話もあったもんだよ。そりゃあ「アイドルからの脱皮」もしたくなるし、学業に専念したくもなるし、愛情を注いでくれる個人を求めるし、特殊飲食店や成人向け映像業界に転職もするよな。


この構造は、なるべく早く変わっていくことが望ましい。そう考えるのってヲレだけかな。ただヲレは観客でしかないから、客席でできることを探すしかない。
「客を育てない産業は衰退する」と聞いたことがある。客ってどうやったら育つんだろう。コンビニでバイトしてた頃から「お前が指導すると使えない人材が出来上がる」*12といわれてきたくらい邪道な芸風だから、ヲレは育てない方がいいのだろうけどさ。


この人は何をもって、どのような手続きでもって己の自尊心を満たそうとしているのか。この物差しは、きっとステージ上にも客席にも使える。もしかしたら送り手の戦略に乗っかるかどうかの基準にもなり得る。というか、自画自賛のようで申し訳ないけれど、けっこう汎用性があるかもしれない。この人は何をそんなに怒っているのか、何がそんなに気に入らないのか、を解く鍵にもなるし、逆に使えば簡単に相手を怒らせることができるから、喧嘩を売ることも買うことも、回避することもできる。


何かにつけ「勝ち負け」が持ち出され「最強」だの「正義」だのがもてはやされるのは、それらに従うことで自尊心が満たされるから、議論下手は問題の解決よりも相手の自尊心を潰し己の自尊心を満たすことを優先するから、クレーマーが執拗なのは傷つけられた(と思っている)自尊心の回復がなされないから、・・・とは考えられないだろうか。「人間は(利己的)遺伝子の奴隷」ってテーゼがあるらしいけれど、もしかしたら「現代(日本)人は自尊心の奴隷」といえるかもしれない。いえないかもしれないけれど。
・・・広げた風呂敷が大きすぎて、どうやって畳んだものか頭を抱えております。なんでこんなに広げちまったんだろうヲレ。もちろんそれがヲレの自尊心を満たすからだ。この風呂敷を畳むことでさらに満たされるに違いない。



Twitterでたまに流れてくるファンの声から推測するに、いわゆる地方アイドルにはまだ「親近感」で踏みとどまっているもの、そこからくる熱意あるものが残っているんじゃないかという気がしなくもない。流れてくるのは(ヲレから見た)「良心的」なファンの声だけで、実際は「お客様」で荒れているのかもしれないけれど。
まぁ、ヲレは℃-uteHello!Projectが大好きなだけで、その客席に着くことで自尊心を満たしているわけだから、そっち方面の話をしよう。


ヲレがハローの作品に触れ客席に着くなかで、受け取ったメッセージがあるとするならば、
「ここにはお前のために生きてる人間は一人もいない。現実に対応しろ」
これがもっとも強く心に焼きつけられたものかもしれない。そういう苦いメッセージを含めたエンターテインメントが、ヲレにとってのHello!Projectなんだなぁ。
自尊心の売り買いを断つ姿。利益誘導型とは対極にある。これこそが、音楽性を超えたハローのロック性、既存の価値観を揺さぶるカウンターなのよ。ヲレにはね。
「王様は裸だ」
指摘することしないこと、優しいのはどっちだろう。時と場合によりけりか。


そういうものを受け取っていない人、まったく違うものを見ている人がいて、話していて歯がゆく感じること、ネット上の発言で「ああ、この人も結局は『お客様』か」と失望することがないわけでもないけれど、価値観の違う者同士、同じ対象から違うものを見出したとしてそれは自然なことだし、それぞれが受け取ったものの中に通じる「同じ」ものがあるから気持ちよく集えるのだよね。
文化的に豊かなのよ。何か一つの価値観に固められちゃうって気持ち悪いじゃん。


ハローの面白いところの一つに、利益誘導に偏りがちな業界にありながら、そのトレンドと距離をおいているところがあるなー・・・とヲレは感じている。歌謡曲の世界にありながら振る舞いがロック、という趣。さすがはフォーク/ニューミュージック系音楽事務所の企業グループが展開しているだけのことはあって、会社や部署によって温度差はあるだろうけど、「ザ・芸能界」のノリとはどこかが違っているんだよな。
ただ、「ザ・芸能界」だって、昔はこういう歌を聴かせていたんだぜ。

いい加減にして 私あなたのママじゃない

山口百恵『ロックンロール・ウィドウ』1980、作詞・阿木耀子


もはや客に満足させないように仕組んでいるという解釈すら可能なくらいの、接触関連イベントの仕切りと運用の悪さ。いつか客が発動するぞ。これに限らず、どこかに不満を持たせることで、「次回はこの不満が解消されているに違いない」という期待を持たせるテクニックがある・・・というような強引な解釈は以前お伝えしたことと記憶するけれど、ものには限度というものがある。
「その不満が解消されることは望めない」
と、いい加減気づかれたことと思う。ヲレからすれば、ここまで頑なに客の要求に応えない*13姿勢が徹底されている様子、いちいち反応する人々の姿はもう笑いすら湧いてくるものだけど、真剣に怒ったり呆れたりしている人もいるから発言は慎重にしておこう。


ある要求に応えることは、別の要求に応えられない危険を孕む。ならばどちらにも応えない。あらゆる要求は聞くだけ聞いておいて、独自の道をいく。その末路に待つものは「八方美人で八方ふさがり」だったり、単純に四面楚歌だったりするんじゃないのかとも思うけど、ロックとしては比較的真っ当。「お客様」の「聖なる欲望」には限りがないのだから、応えられるギリギリのラインをどこかで迎えてしまう。そこで切るくらいならいっそ初めから・・・というのは理解できなくもない。偶然の産物ではあるけれど、結果的に価値観の多様性が侵されずに済んでいるのだと考えれば、悪いことばかりともいえないなぁヲレには。


ヲレはもう送り手の大人に何かを期待することはやめて、自然災害と同じように考えてます。演者と観客の仲立ちをしてくれりゃそれでいいよ。
こちらの思うようにはできない*14災害が頻繁に起きて、それでも馴染んだ土地を離れられないのならば、そういう土地でどう生きるかに知恵を絞りたい。
そんな土地に「期待」や「願望」なんて脆い楼閣は建てない。そういう知恵も身についた。馬券は買わなきゃ当たらない、ってのも一面の真理ではあるからややこしいんだけど、「ハズレ上等」なんて馬券を何度も買える気力体力は、この年寄りにはもう残っていない。


どこへ逃げたって、世界は薄情で残酷だ。俺たちはそういう世界で生きるのだ。
その鍵は、きっと俺たち自身の中にしかないはず。



キタイやガンボウがバラバラになったって、その欠片をつなぎ合わせれば、そこにはまだキボウが残っている。
期待は裏切る。むしろ裏切られることの方が人生にはずっと多い。
それでも、希望は消えない。
希望は、存在なんだ。「希望が存在する」というより、対象の存在じたいが希望。だから存在が長く続くと思われる若者の姿に希望を見出すんだ。


そういうこととは少し違う意味合いで、ヲレにとって矢島舞美さんや℃-uteHello!Projectというのは、存在するだけで希望なんだな。希望の象徴、じゃなくて、希望そのもの。
それはきっと、彼女たちと自分との間に決して終わらない何かがあると確信できるから。
未来はいつもここにある。いつもここにあるなら、未来は無限で永遠だ。
だから、彼女たちが何かヲレの期待に応えられない事態があったとしても、失望することはない。だって存在という希望、の存在、がそこにあるのだから、失われるはずがないじゃないか。



℃-uteが開く未来の扉からは、色々なものが見えてくるんだなぁ。


℃-uteとともに、一緒に歩む仲間とともに、もっと未来の景色を見ていたい。どんな景色だろう。
从・ゥ・从<訊くだけ野暮でしょ
从・ゥ・从ノソ*^ o゚)州´・ v ・)リ ・一・リ(o・v・)<Buena Vista
从・ゥ・从<・・・に決まってるじゃまいか


これがヲレのJoie de Vivre(生きる力=仏)です。

*1:『セブンティーンズVOW!』『青春!無限パワー』を含めるのもありでしょう。そういえばしばらく無限パワーを生で聴いてないような気がする。

*2:何か忘れてるような気もするけど、きっと気のせいでしょう。

*3:あ、思い出した。

*4:どんなジャンルでも、送り手が「君たちこういうの好きでしょ?」って出してくるものって、ヲレにとっては「余計なお世話」なのよね。

*5:実際高校では帰宅部でしたが、理由が「うる星やつらの再放送を見るため」だった程度にはアニメ好きでした。

*6:ちなみに、例の番組は僕が高校に入った年の4月スタート、高3の夏に終了でしたから、ドンピシャで同級生感覚でした。

*7:テレビ東京の某アナウンサーが本格的に受験勉強を始める前、でも可。

*8:がいてもいい、と18年前のヲレはあるミニコミ誌に書いたんだけど、当時はそれがまだ非主流だったから面白かったんだと思う。そればかりになっちゃうと・・・。

*9:過去のように書いてますが、実はまだ「冬の時代」って終わってなんかいないんだよね。ストーブの前で鍋つつきながら熱燗飲んで「暖かい」のは冬だよね。

*10:結局のところ、それ以上に堅いネタを発掘できなかった、アイドルマニアより金払いのいい客がいなかった、ってことなんだろうね。アニメなんかもけっこうボロ・・・もとい、うまみのある商売なんじゃないかと思うけど。

*11:・・・てしまうのも個人的にはどうかと思ってる。アイドルってのは受け手がそのように遇するものであって、目指すものではないというのがヲレの考え。

*12:何しろ「手の抜き方」から教えてましたから。

*13:うかつに客の欲望や自尊心を満たしはじめたらキリがないよなぁ確かに。

*14:先方にその気がないわけだからね。