僕らがアイドルになる方法


僭越ながら、私は常々「商業作品はユーザーの手に、目に、耳に、心に届いてはじめて完成するのだから、ユーザーこそが作品を完成に導く最後のクリエイターである」と自負しておりまして、その誇りを自ら汚さないためには、個々の作品と真剣に向き合い、受け止め、考え、迷い、解釈して、消化あるいは昇華しなければならないと考えております。


戦国自衛隊』のアンケートに、勢いでこんなことまで書いてしまいました。こと商業作品においては、表現者にとっての「完成」と受け手にとってのそれは違う。そんな風に思うわけです。
不遜? だよなぁ。こういうつもりで客席に着いている、という文言を省いてしまったのがいいのか悪いのかはわからない。


客席や握手会での狼藉、ブログやTwitterでの心ない振る舞い、それらはすべて「気持ちよくなりたい」からだと考えればヲレの中では辻褄が合うのです。若い頃色々な方面で経験しましたが(何)、快感への欲求はとどまるところを知らないもの。時には法や倫理に背く行為と知りつつもやってしまうらしいということは、夏場に新聞の社会面を開いてみれば頭では理解できるでしょう。例えるなら路上で露出しちゃうようなもの・・・なのかな、やったことないから知りませんけど。


快感に弱く、またそれを求めるに貪欲なこと限りなき哀れな変態(ヲレ含む)は、常にどこかでブレーキをかけなければ、そのポイントを自分で用意しておかなければならない。
自分を律する気持ちを忘れたとき、観客はひたすら自分の充足、快感だけを追い求め、「さーて俺を気持ちよくさせてくれるオモチャはどこかなー?」と彷徨う「消費者」という名の亡者となり、頭のいい人たちによって、趣味や娯楽の世界にとどまらずあらゆる局面で死ぬまで消費させられ続ける。まるで自らそれを選んだように思わせる巧妙なテクニックで。「どうすれば消費者は快感をおぼえて財布を開くか、そのツボをどうやって刺激するのがもっとも有効か」なんてノウハウはとっくに確立しているのですよ。


乗せられてしまったらカモられるばかり。カモられてばかりいるから、損なわれた自尊感情を回復するために要求が増えていく。それが省みられたり省みられなかったりすることでさらに執着が増し、よりカモられていく。以下無限ループ。
こうなると、公の要求と私の要求との板ばさみになりまして、今度は演者の自尊感情が損なわれていく。その帰結として待っているものが、誰にとっても喜ばしくないことは明々白々。
この世界は、ヲレが知るだけでも軽く20年、25年くらいはそうやって演者を消耗させ、消費し、使い捨ててきた。個人的にそういうのはもう飽きた。だからもうやめようと思った。それで過去の過ちが消えてなくなるわけではないけれど、過去や現在は変えられなくたって、未来は変えられるかもしれない。


ではどうするか。方法は一つに限らないと思うけど、とりあえず試しているのが「作品本位」というやり方。これ、なかなか具合がいいぞ。


なぜ「作品」なのか。
仮にアイドルという業務形態における顧客との距離感が「架空の恋人たち」であり、ユーザーがその虚構性を楽しむ娯楽であったとしても、少なくとも作品だけは「確かにそこにある」ものだから。
僕はアイドル業務における「虚構性」など認めないし、認めることがあってはならないと自分を戒めている。仮に認めることをしたとしても、それを過剰に求め、溺れ、甘えることは厳に慎まなければならない。その甘えこそが無責任な消費の源となり、業務従事者の独立した自我や人格、人間性を無視し、何をやっても平気でいられる言い訳となる。実体験をもとにそう考えるからだ。何より、1986年4月8日に命を賭けて「アイドルとは虚構の存在などではなく、まず第一に業務従事者、人間である」ことを教えてくれた人に申し訳が立たない。
百歩譲って虚構性があったとして、業務従事者は現実に存在し、自己実現のために日々悪戦苦闘している。それぞれの時点における成果が個々の作品である。
「確かにそこにあるもの」を通して「現実に存在する」人と対決したい。同じく現実に存在する者として。俺はネギ背負ったカモではなく人間なのだ。


残念なことに、いきなり人間まるごとと向き合うには、僕には「人に揉まれる」経験が少なすぎる。したがって、すぐにどうしていいかわからなくなって、混乱して、何もかも駄目にする。心理的距離や間合いというものをとるのが下手すぎる。
だから、まず作品。これならうまく付き合えそうだと思った。


基本は「好き・嫌い」でいいと思うんだけど、明らかに主観や思い込みで語るわけだから、その言葉に「ま、好みは人それぞれだから」なんて逃げ口上を許さないくらいの力を持たせるには、自分の価値観、美意識を自分で把握して、日ごろから発信しておかないといけない。「俺はこういうものが好きな人間だから、今回取り上げるこれは・・・」という形。読んでくれる人が「あいつこういうの好き(嫌い)そうだから、どんなことを書くかな」なんて興味を持ってくれたら嬉しいね。「アイツは事務所の犬だからなんでも褒めるだろ」でも、それはそれで特色だと思うことにしよう(苦笑)。
どういうものに価値を認め、どういうものに認めないか。それを示すことができれば、「好き・嫌い」は感情を越えた何ものかになり得る。
こういう手順を踏んでいくと、面白いことに、作品の評価をする前段階の作業として、自分の心の中を探ることが必要になっていく。面倒なことではあるけれど、僕のような「究極的には自分にしか興味がない」ような人間には最高の娯楽となる。


この面白さにハマって毎日楽しんでいるうちに、自分の「ツボ」がわかってくる。仮に、
「エンターテインメント表現の受け手として、刺激されると気持ちのいい、性感帯のようなツボ」
略してエンタメ性感帯とでも呼んでみましょうか。
自分の性感帯や食べ物・飲み物の嗜好がわかれば、夜の生活や遊びが楽しくなるじゃないですか。観客の世界でも同じように、自分のエンタメ性感帯を気持ちよく刺激してくれるものを選べるようになるし、そこは気持ちよくないんだよな〜って部分ばかりを刺激するものからは自然と遠ざかる。
排他的? いやいや、「入る店を自分で選べるようになる」程度のことなんじゃないでしょうか。


僕は酒に弱い(体質面、知識面とも)のでよくわかりませんが、若い頃にちょっと試した範囲でいうと、麦で作った酒は全般的に苦手、米あるいは果実を原料にしたものは舐めるような一口二口くらいなら飲めないことはない。そのくらいのことはわかるから、「酒とかみんな一緒だろ、メチルじゃなきゃ何だって同じ」なんて乱暴なことはいわない、いえない。いえちゃう人って一種の中毒だよね。
ところが、アイドル稼業を取り巻く環境、すなわちメディアや観客同士の世界ではこの手の物言いがなくならないのですよね。「アイドル」であればすべて同じようなものといい加減な括り方をする。それはそれで新たな世界が開けることもありますが、エンタメ性感帯が全身にある人もいれば「俺はここを攻めてくれなきゃイヤなんだ」という人もいる。そこはわかってあげないとなぁ。ヲレたちだって「ヲタクなんてみんな一緒」とざっくり括られたら一言いいたくなるでしょう。ある傾向の話をしているのに「全部が全部そうとは限らない。現に俺はそうではない」と口を挟むくらいの過剰な自意識ってあるじゃん。


何もamazoniTunes Storeで買えるものだけが作品ではない。たとえば矢島舞美さんのあまりにもまっすぐ伸びた背筋、立ち姿の美しさは彼女の作品である「矢島舞美という芸術」*1の一つだし、嗣永桃子さんの「ももち」だって彼女のプロフェッショナリズムから生まれた作品の一つ・・・といういい方をしてはいけないな(笑)。
少し気をつけるだけで、表現者個人であったりグループであればその「場」であったり、あるいはプロジェクト全体であったり、それぞれが「作品」として磨き上げようとしているものが、歌とダンス、トーク、演技、・・・といった抽象的な定義を越えて、なんとなく感じ取れてくる、ような気がする。ヲレはHello! Projectの一部分しかわからないし、ハローの中でも熱心に見る人とそうじゃない人は分かれてしまう(DVDを見て初めて気がつくことってあるよね 苦笑)けど、そういう「看板メニュー」「裏メニュー」を知る楽しさも生まれてくる。


これもやはり、結果としては自分の心を探る作業になるのかもしれない。自分は何を作品と認めるか。
たとえばヲレの場合、いま対処に困っているのは「握手(会)を『作品』と認めるか」。
原則的には認めない立場。以前にも書いたり言ったりしたことがあるけれど、握手会とはそもそもファンサービスでもなんでもなく、演者が観客一人ひとりに「ありがとうございました」を言うための催し・・・という考え、仮にいつからかファンサービスに変化したのだとしても、あくまでコンサートなりイベントなりという「作品」に付随する特典という解釈に変わりはない。ハローの握手会が音に聞こえた高速、流し、剥がしっぷり*2なのも、そういうことなのではないかと。
ところが、だ。
握手会における℃-uteの振る舞いなんかを見ると、迷ってしまうのですよ。
歌って踊ってトークして、体力使って汗かいて、かなり消耗してするはず。それなのに、たとえ3回まわしの3回目であっても、こちらがかける言葉をどうにか聞き取ろう、しっかり返事しよう、息を吸って吐くくらいの短い時間でもコミュニケーションのようなものを形成しようと、しっかり受け止めようとするメンバーもいれば、目を爛々と輝かせて「参加者全員にがっつく」くらいの勢いのリーダーもいる。客DDかキミは。客じゅ〜よ〜略してKJか。
これはもう少し考えていきたい。


すべての作品は必ず作者の人生から生みだされます

──町山智浩(映画評論家)──
参考URL

これまでアイドル業務従事者が「表現者」として扱われてこなかった理由の一つはこれでしょう*3
「人生」を感じさせる女性アイドル歌手*4というのは数少ないもので、またそういうものを感じさせるようになったら、山口百恵にしろ中森明菜にしろ「アイドル」とは呼ばれなくなる。例外は日本芸能史上で松田聖子ただひとりといっても過言ではないでしょう。あの人も「カリスマ」と呼んじゃってかまわない気もする。
アイドルは「青春」であって「人生」ではない、とする考えも潔さを感じるけれど、そうやって無責任な消費者が「アイドルとは」なんて枠をはめ込むの、もういいじゃん。それこそ不遜だよ。
「人生」を見せるアイドル。そういうものがもう生まれているのだ。ここからは目を逸らせない。


未成年者ゆえの単純な時間的または経験的問題、さらに大人の庇護を受ける社会的立場上の問題から「人生」を感じ取れずにいた、という従事者自身の、ただし本人に責任のない問題は、たとえば舞台裏の(明らかにしてもいいレベルの)苦労話を表に出したり、あるいは若いを通り越して幼いうちから契約し、下積みを経験させたりするなどを通して*5、目標に向かい苦闘する姿を、見せられる範囲で見せる。甘やかさずプロフェッショナルとして扱い、大人と一緒の仕事を経験させ、ルールを教え込む。


これらの積み重ねによって、いつしか少女たちの立ち姿に筋が通り、言葉に重みが、パフォーマンスに根拠と説得力が生まれる。というか、そういうものを感じる下地が受け手の中に醸成される。この人たちが今ここにあるのは、単に遺伝子の悪戯による造形美だけではない。そういう当たり前のことに気づく。


これだけでは、まだ「人生」には足りない。プロフェッショナルとしての経験を積むのと同じくらい大事なものがある。ちょうどいいサンプルがHello! Projectより提供されているね。



ブスにならない哲学
タイトルを知った時から感じるものがあって、楽曲に触れてそれが間違っていなかったことを確認した。MVはあまりにも直球勝負すぎて驚いたけどさ(苦笑)。


これほど名で体をあらわしまくったものも珍しいもので、
ブス=「美」に関する用語
哲学=

1 (省略)
2 各人の経験に基づく人生観や世界観。また、物事を統一的に把握する理念。「仕事に対しての―をもつ」「人生―」

(「大辞泉Yahoo!辞書より)

美醜についての語句を用いる場合、そこには発言者の美意識が反映される。何をもって美しいとするか。
そして人生観、(Hello! Projectの)世界観、(恐らくは「アイドル業務」に対する)理念。


美意識と理念。楽曲にこれを織り込む意図なんてのは、もはやいちいち語ることもないでしょう。わからないのはわからない方が悪いのかもしれない、そんな発想を持つことも向上心のきっかけになると思います。
ただ、わからなくてもしかたがないかもしれないとは思う。なぜなら、この曲は、作品と勝負するヲレに向けて、ハロプロが勝負を挑んできたものだから。ハロプロがヲレと絡むための、サービスの一曲なのですよ。
ヲレにとってはそういうものでもある、というオハナシ。


昔話は年寄りの特権なので遠慮なくお送りいたしますが、かつてのオタクの世界というのは今よりもっと閉鎖的かつ意地悪なものでしてね、隙あらば相手の上に立とうという獣のボス争いみたいな意識でドロドロしてました。「東京12チャンネルがネットされてない地域に住んでたからイデオン見てない? それは君の生まれの不幸を呪うがいい」なんてちょっとうまい言われようも珍しいものではなかった。とにかく知識や体験、記憶のある者が絶対上位というヒエラルキー。今のヲレもその影響下にあるな。だから現場にはこだわりがある。
そんなところで知らない・わからないなどと口にしようものなら「あっそ、じゃあお前とはここまでのレベルしか話せないね」くらいの扱いを受けまして、それが嫌さに知ったかぶりをして、馬脚を現そうものならなお悲惨。「心底恥ずかしいヤツ」のレッテルを貼られたものでした。
そんな扱いをされたくなければ、先輩の知識自慢に耐えながら、話や文章の端々に表れる参考資料を自分で揃えて勉強したり、あるいは自分の専門分野の情報と引き換えに教えを乞うたり。いわゆるアラフォーあたりから上の世代のオタクというのは、せめて趣味の世界では恥をかくまい、好きなものの世界のことだから、何より自分の「好き」な気持ちに対して恥ずかしくない自分であろうとツッパっていて、それはそれでストイックな美しさを感じないでもないものでした。


わからないことは決して恥ずかしいことではないけれど、いつから「知らない、わからない」をさも当たり前のように、「わからせてくれないお前が悪い」くらいの態度で発言する「わかろうとしない」行為が幅を利かせるようになったのだろう。
ぐぐればなんでもヒットする世の中ではあるけれど、自分の中に蓄えた知識や経験、そこから生まれる自分だけの言葉は、どんなマシンや高速回線やWebサイトを使うよりも速く、的確で、説得力のあるものなんだ。Wikipediaには載ってないけど俺は知っている、なんて事項に出会うと最高に気持ちいいよ。
「解釈」を人まかせにするヤツにゃ「表現」に触れる資格はない。少なくともヲレは疑問を抱きますわ。


後で読み返した時に忘れてると困るから一応書いておこう(笑)。たまにそういうことあるのだ。
ハロプロには美意識と理念がある、という主張。あなたにはそれがありますか? という挑発。その相手は業界であり大衆であり、受け手でもある。ロックだな。
とはいえ、主たる狙いは現在ハローの客として行動する人々かな。貴様らはどういうつもりでいるのか、この美意識と理念に拮抗できるものを持っているのかと。いい加減消費されるばかりではいないぞ、という宣言とも解釈できる。
ま、なんだかんだいって、一番大きいのは「リスタート」ということでしょうタイミング的に。


・・・とても意義深い、ハロプロハロプロであるための一曲なのよね。地味だとかインパクトがないとかそういう「もっとトべるのない?」的なヤク中みたいな態度とか、挙句の果てには「これじゃ○○に勝てない」なんて半端な業界ズレの腐った観点でしか語れないのは情けないことなんだって、いい加減理解できないものかなぁ。
素直に向き合うだけで、見えるものは、受け手の「引き出し」の数だけある。「引き出し」を全開にして勝負すれば、思わぬ方向から反応が返ってくることだってある。恐縮です。ご迷惑ではなかったでしょうか。



表現としてわかりづらくても、何らかの「こだわり」がある人、前向きなテーマを持ったプロジェクトって、魅力的だよねぇ。何気ない一言や表情に人生観を感じるとき、相手の歩んできた人生の重みが伝わってくるような気がする。
ワタシはここで生きるのだ。そういう決意を持ってステージに立っている・・・そんな風に感じられる人が好きです。
仕事である以上楽しいことばかりじゃないはずで、ふと冷静に周りを見回せば楽しそうなこと、ものが溢れている。℃-uteファン諸兄諸姉におかれましては『Big dreams』の歌詞を思い出していただければ。
Big dreamsの歌詞
特撮ヲタならレインボーマンの初期ED『ヤマトタケシの歌』でも可。
ヤマトタケシの歌/安永憲自 ヤング・フレッシュ - 歌詞GET


迷いに囚われない、歩みを止めない*6ために、僕らに何かできるだろうか。
単一の方法で一年を通して的中率100%、かつ収支も大幅プラスになる馬券必勝法がない*7のと同じように、すべてのアイドル従事者の迷いを払拭する魔法は存在しない。現状で、僕たちという存在は、辞める理由にはなっても続ける理由にはならない。そんな気がする。それでも、せめて彼女たちが内に秘めるものをわずかでも理解する、その端緒だけでもつかむための試行錯誤をあきらめてはならない。そうも思う。それが、ステージに立って何かを伝えようとし続ける人たちへ、客が尽くすべき礼儀じゃないのかな。

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そうそう、ゾンビデオや王様ゲームの主題歌の問題。
凄惨な映画の後に毎度おなじみ能天気なつんく歌謡が流れることで、僕らは安心できるじゃないですか。これはフィクションなのだと。映画じゃないけれど、『らん』とか現実に戻るのが大変だったじゃないですか。見てないけど『死守セヨ』もそうだったかもしれないと想像する。それはそれで得がたい体験であり、享受すべきものですけど。
フィクションから現実へスムーズに戻るための道案内。映画好きの人はこれが自然にできるよう知らず知らず自分を鍛えているけれど、ぶっちゃけヲレら映画見るカネがあったらCDをもう1枚買うじゃないですか(苦笑)。なかなかそういう感性を鍛える場には縁がないと思うのよ。
電人ザボーガー』で一躍有名になった(と思われる)井口昇監督のいう「映画の読み方」「フィクションの楽しみ方」を知らない、かもしれない人向け。『仁義なき戦い』を見た観客なら肩を怒らせてみたりちょっと言動や行動が粗暴になるくらいで済みますが、それはそれで問題ですが、ゾンビデオだとねぇ、うっかり手に灰皿くくりつけて連打連打とかやりたくなっちゃうかもしれないじゃないですか。そういう「フィクションと現実の区別がつかない」かもしれない人がいる危険を想定して、℃-uteヲタ、ベリキューヲタなら曲聴けばいつもの調子を取り戻すんじゃないかなー、みたいな。
・・・なーんてことは考えられていないと思いますけど、そういう効果だってあるんじゃないのかな、というオハナシでございました。事実かどうかは考慮しない。

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「作品」と対決していこう、という意識を持つことで、副産物がある。対象について、
「この人(たち)の『作品』は何か、何を自らの本線としているのか」
そういうものがおぼろげながら感じ取れてくる。そこを曖昧にするのも工夫の一つではあるはずなんだけど、あからさまになっちゃう人(たち)ってのもある。それはそういう露悪主義的な戦略なんだろうな、安いよね、なんて判断もできるようになる。
ま、判断できないのが大多数ではあるんだけどね(汗)。それはもうそういうものなのだと受け止めるしかない。アイドル業務ってのは「何でもやる、やらされる、やらなければならない」部分はあるけれど、あれもこれもで虻蜂取らずになっちゃうと、長続きはしないもの。そういう太く短いやり方も楽しいけれど、今のヲレの好みではないなぁ。


また、作品への意識を高めていくうちに、かえって表現者本人がよく見えてくるような気がしてくるから面白い。ブログへのコメント、ツイートへのmentionにしても、「大好きです」「応援してます」「頑張ってください」等の定型文だけでなく、たまには「あの作品のここが素敵だった」「こういうことを感じ取りました」という一言を添えることができて、自己満足ではあるけれど、ちょっと深い言葉を渡せるようになった気がしないでもない。握手会じゃ相変わらずなんだけどよ。


僕らはアイドルちゃんを救えない。それは僕らの何かが、もしかしたら何もかもが間違っている、歪んでいるからだ。
それでも、せめて彼女たちの「思い」は、折に触れ掬っていきたい。少なくともそうあろうと挑戦していきたい。
正しくなくたっていい、間違ってもいい。正しくあろうとして間違えるのは最悪だ。
怠惰であることはしたくない。興味にないことに対してはまったくやる気を起こせない自分ではあるけれど、だからこそ、興味のあること、好きなことで手を抜くことはできない。



表現者の領域へ、一歩考えを進め、思いをめぐらせる。これを繰り返していったら。僕らは今よりももっとアイドルちゃんの情熱や苦悩に近づけるかもしれない。
もしも本当に、「作品を完成に導く最後のクリエイター」たり得るならば。互いが「作品を発表する者」「その作品を最終的な完成に導く者」として、クリエイターとして互いを尊重しあいながらやり取りできたら。そうあり続けることができたら。
その時は、僕らもアイドルちゃんの作品の一部になれるんじゃないのかな。アイドルちゃんというのはそれ自体が業務従事者の作品であるのだから、その一部になるということは、僕らの存在もアイドル業務従事者の作品たる「アイドルちゃん」になるということだ。だいぶ強引で申し訳ないけど、書いてる本人は半分以上マジだから恐ろしい。病院には月に2回通ってるのであらためて紹介していただかなくても間に合ってます。「まにあって」とタイプして変換したら、最初に「マニアって」が表示されるからヲレのIMEもだめすぎる(苦笑)。


制作者やパフォーマンス担当者、すなわち表現者の人生が反映された作品と対峙するとき、そこで生まれる言葉には発言者の人生が反映されているはず。そうでなくてはならない。というか、そうならないはずがないのだ。であれば、それもまた発言者の「作品」となり、別の受け手の目に、心に触れ、新たな言葉、作品が生まれる。
それらのぶつかり合いが各々の作品を磨き上げ、受け手の中にそれぞれの像を結ぶ。像と像とがまたぶつかり合い、磨かれていく。その繰り返しが、作品そのものだけでは到達できない領域、すなわち「完成」へと、作品を、制作者を、パフォーマーを、受け手を、あらゆる表現者たちを押し上げていく。
他人様に誇れるものなどない人生ですけれど、だからこそ遠慮なく披露できる面はあるかも(笑)。出された料理を素直に楽しむところから始めて、そこからオリジナルの完成像を作り上げ、研ぎ出していきたい。


それで何かが変わるのか、と問われれば、きっと何も変わらない。
だけど、変わらないなら何をやっても無駄なのか、といったら、そんなことはないはずなんだ。


まとめると、たとえば『世界一HAPPYな女の子』とか『ゾンビデオ』とかいったものをすっ飛ばして一直線に「矢島舞美」へ迫ることはできないし、やったら最後、パフォーマンスを受け止めないでピョンピョン飛び跳ねてる人たち*8みたいに道を踏み外すんじゃないかと思っていますよ、みたいな。なんだよ1万字以上も書くことなかったな(汗)。


100%ヲレの思い込みだから、他人様にはオススメしない。それはそれとしてオスメスしたい。ナンノコッチャ。

*1:というものがあると、ヲレは確信しているのだよ。異論の存在は認めるけど聞きたくない。

*2:客のベルトつかんで流してたキューティーショーよりは穏健になったと思うよ。

*3:自分で曲を書かないから、なんて言語道断の言い草もなかなか滅びませんが、それを口や文字にして恥じない人は、たとえば「演奏家」というものの価値をどう考えてるんでしょうね。

*4:今さらではございますが、拙文における「アイドル」の対象はそのように限定しております。

*5:自社とは別のプロダクションや養成所からオーディションを通じてスカウト・・・なんてのも最近は目立つようになりましたねぇ。

*6:特にハローの場合、原則的に「休業」はないからね。かんにゃはハローには戻ってこなかったけど、みっつぃーには是非戻ってきてもらいたい。

*7:いわゆる「必勝法」には存在しない、というだけのことで、年間収支プラスの予想家というのは毎年いるのだから、「勝てる予想スタンス」またはポリシーというのはあるのでしょうね。本来はそういうものこそ「必勝法」と呼ばれるべき。

*8:あれってさ、ステージに立つ人の「表現」の拒絶じゃないのかな。少なくともヲレにはそう見えるんだ。情けないね。