赫奕たる異端


いやぁ、雰囲気出てるなぁ。未見なので賛否両論あるとか知りませんでしたわ。



アイドル、とは何か。考えたことがある人は少なくないでしょう。そして流派(笑)によって様々な定義があることは想像に難くない。
(オ゚Д゚)<そのどれもがアイドルであり アイドルでないといえる・・・
从;・ゥ・从<ボトムズつながりで幻影篇のOP か


「事実と事実の間を、どうせ公表されないのだから都合のいい妄想で埋める」「論理は後で考える、といいつつ結局考えない」そんなヲレの流儀だとこうかな、という話をしてみよう。



ズレ。


ヾ从;・ゥ・从ノ<ちょ そんな根も葉もない噂を・・・
(オ゚Д゚)<何を考えとるのかねチミは
(オ゚Д゚)<1つ、人の話は真面目に聞きなさい
(オ゚Д゚)<2つ、あなたの心は汚れています
m9从・ゥ・从<3つ、「○○ちゃんはガチレズ」なんてネタを真に受けてたら、いつの日か本当にがっかりする日が来ます
(オ゚Д゚)<こらこらブラックすぎるぞ


一方に、厳しい修業によって鍛え抜かれた芸の世界があり、そこで培った芸を披露して聴衆/観衆の心を震わせる者がいる。そのストイックな姿勢、時には己個人の幸福を犠牲にしてまでも「芸の神様に身を捧げる」かのような生き様も、また感動を呼ぶ。
そこに、
「テレビに出て歌うこと、人気者になることってそんなに大変か?」
という、異議申し立て・・・いやそんな重いものじゃないな、茶々を入れる、揶揄する、軽くツッコむ、そんなノリ。
この二つの立場のズレが、あたかもよくできた喜劇のような「緊張と緩和」の関係となり、当人や送り手が意識するしないに関わらず、いや多くの場合は意識しないうちに(ここ重要)、定型に対する崩しの面白さ、反権威主義的な「批評」にも似た面白さを獲得する。ヲレがアイドルちゃんに求めるものの一つに「笑い」というものがある理由がなんとなくわかっていただけると思う。わからなくても気にしない。

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アイドルと笑い、といえばキューティーガールズを忘れることはできない。思い起こせば2006年11月3日、あのステラボールの重苦しい空気を和らげた小学生たちの奮闘なくして、今日の℃-uteはあっただろうか。少なくとも今のヲレはなかっただろう。その恩を忘れたつもりはないぞ。ほとんど年に一度のDJ マイマイ(ryに吸収された雰囲気もあるけど、たまには帰ってきてもいいんだぜ。

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つまり徹底してカウンターカルチャー、スキ間産業であり、すでにある権威に対してどういう態度をとるかというリアクション芸であり、正統に対する異端という立ち位置なんですよね。メインとして確固たる地位を築き斯界に君臨するものがないと、存在の意義や価値が薄れていく。


とはいえ、はじめからそういう意図があったかというと疑わしい。現在まで続く「アイドル歌手」のルーツを1970年代初頭に求めるならば、天地真理は音大の附属高校で声楽を学んでいたし、小柳ルミ子宝塚音楽学校を首席で卒業、麻丘めぐみは子役〜セブンティーンモデルの経歴を経ているわけで、それぞれまっさらの素人ではなかった。地元沖縄でアルバイトとしてテレビ番組のアシスタントをしていた程度の経験しかなかった南沙織の方がむしろ例外、そしてある意味天才といえるかもしれない。
異端というより亜流から始まった、という風に見える。


現在まで続くものとしては、むしろ80年代がルーツかもしれない、と思うこともある。NGテイクを残しておいて放送する*1、業界の裏事情を語る*2 などといった形で、70年代(まで)にあったものを丸ごと「権威」としそれを揶揄する表現が大流行したあの時代*3
実名を出して具体的にいうなら、山口百恵という権威に対するリアクションから始まった*4、というのがとりあえずのヲレの仮説。それが松田聖子であり河合奈保子であり、2年後にはその二人に対するリアクションとして小泉今日子中森明菜が出てくる。
単純に分けてしまえば「フォロワーかアンチか」なのだけど、「どこまで取り入れてどこから離すか」のさじ加減がオリジナリティとなり、もう少し時代を遡ったキャンディーズピンク・レディーへのリアクションとなるグループ・アイドルも加わって、アイドル・ビジネス業界は拡大の一途をたどる。そんなこんなで、手元にあるジャズ批評別冊『アイドルPOPS80−90 80’sシングル・パーフェクト・コレクション』(1991年、松坂・ジャズ批評社)には650 組(表紙より)の女性アイドルが紹介されるに至るわけです。さすがに全員は知らない。ヲレもまだまだだ(苦笑)。


でもって。
この構造そのものが後に「冬の時代」を呼ぶことになるのは、もうおわかりのことと思います。


「たとえばビートルズに影響を受けたAというバンドがあって、Aに影響されてBが結成され、それを聴いて育った若者がCを、・・・という風に世代が下がっていくと、いつしかビートルズの影響が欠片も見当たらないバンドが出来上がる」
なんて話を何かで読んだ記憶があります。そういう形で(最初に手本とされたものの)オリジナリティは消失していく、という否定的な文章だったか、あるいはそういう形でも(後に続くものの)オリジナリティの獲得はあり得る、みたいな肯定的な文章だったかは忘れました。
そんなようなことを、アイドルで、あくまでもいい加減に考えてみましょう。
ある定型を崩すものとしてアイドルAが登場し人気を博す。するとAに対するリアクションとしてB が、Bへの批評としてCが、全部まとめてそのスキ間を突いたDが生まれてくる。これを演繹的にどんどんどんどん展開していくと、崩すべき定型、批評すべき権威の存在が限りなく薄まっていく。そもそも時代の空気にさんざん揶揄され批評された「権威」はもはや権威としてとどまることができないわけで、この両面からアイドルはアイデンティティの柱を喪失してしまう。こうしてアイドル・ビジネスは先細りしていく。
とはいえそこそこ手堅い商売であるから完全に撤退するわけにもいかず、しかたがないので送り手や受け手がてんでに「アイドル」像をイメージし、それに対するリアクションを展開するようになる。こうしてアイドルは何よりも「アイドル」を表現する芸能となっていく。それは自然と尖鋭化するものだし、また大衆はそこまで「アイドル」に興味を持っているわけではないので、いきおいマニア相手のちんまい商売となって現在に至る。そんな風に考えているのですが、どうでしょう。間違ってても気にしない。


・・・というわけで、ヲレにいわせれば、今この2011年のニッポン芸能界隈やメディア界隈、あるいはアイドルファン界隈で語られる「アイドルとは」云々「アイドルだから」云々という言辞は、今あなたが読んでいるこの文章を含めその多くが嘘っぱち、勝手な思い込みであるとヲレは思う。これは嘘だ俺はフィクションを書いているのだ、とでも思わなければ、このテーマはヲレには重すぎてやれたもんじゃないのだよごめんなさいね。
そんなものに付き合わせて申し訳ないということはまったく思っていなくて、むしろもう少しお付き合いいただきたい。だって、いくら「自分が読みたいものを書く」ためにブログを始めたとはいえ、自分のほかに誰も読んでくれないなんて寂しいじゃないですか。


「自分はこう思う」と「現実はこうである」をうまく摺り合わせて生きていかないといけない。夢の前には現実の壁がそびえ立つ、これはこの世界でも例外ではないのだよね。


もう20年以上も誤用され続けている*5言葉として「正統派アイドル」というものがある。
アイドルは「すでにそこにある」権威たる何ものかへの批評として存在することでより輝くわけだから、他者と無関係に存在するアイドル稼業というものは存在しないといってもいい。仮に存在したとして、長く生き延びられるものではないだろう。1990年代初めに「最後の正統派アイドル」といわれた高橋由美子は、比較的じっくり育てる傾向にあったビクターにしては珍しく早々に迷走したではないか。


从・ゥ・从<「ではないか」とかいわれてもねぇ・・・
从・ゥ・从<誰もが皆お前さんと歴史を共有してるわけでもないし
そう、それがまた問題をややこしくするんだよなぁ(泣)。通ってきた時代、見てきたものの違いというのはなかなか埋まらないからね。歴史の話となると『いけない・・・わからない・・・好きならばかまわない』、違う、「知らない、わからない、その頃は生まれてない」で済まされちゃうからなぁ。いや、ヲレだって今の人たちについては「興味ない」の一言で済ませるわけだから、偉そうなことはいえないか。

カフェヨコktkr(笑)。これ、横浜そごうの店内です。専門学校サボってよく通ったなぁ・・・なんてことを、横浜BLITZへ行く道すがら思い出します。こっちへ行くと必修科目の授業に出られなくて、結局卒業できなかったのは内緒だ(笑)。
そんな冗談はさておき、とにかく、歴史の共有が行われないってのは芳賀ゆい、もとい、歯がゆいなぁ。

架空アイドルといったら、ヲレらの世代はこれ。作詞が奥田民生、編曲が小西康陽とかえらく豪華ですな。フランキー堺とシティ・スリッカーズに始まる(でいいのかな?)「ふざけたことをやるためには音が良くなければいけない」*6の系譜に連なるものと考えていいと思う。いい大人が大衆音楽というフィールドでやらかすお遊びというのはこうじゃなきゃいけないよなぁ。


いけねぇ、お遊びがすぎた。えーと、どういう話だったっけ、「冬の時代」後の話でいいか。
といっても、今もって冬の時代は続いているんじゃないでしょうか。批評の対象を見つけられず、タコが自分の足を食うがごとく*7、アイドルがアイドルを(多くの場合半ば露悪的に)表現し、それをブラックジョークとして喜ぶファンがつき*8、そんなこんなで縮小再生産が続いていき、個々のオリジナリティなるものは、外から見れば無いに等しい程度のものになっていく。そんなお寒い状況の行き着く先は、もっとお寒いことになる「アイドル氷河期」でしょう。ペギラでも来るのかよ。


だが、あきらめるのはまだ早い。


独創性の不足、過剰な内向性を「様式美」という言葉で糊塗するもの、批評精神を失って「すでにそこにある」もののエピゴーネン以上にならないものが跋扈する一方で、面白い動きがある。


ハイレベルなパフォーマンスを提供して、観客の皆さんに喜んでもらい、その輪が広がるという希望を胸にやっていこう。


それは「厳しい修業によって鍛え抜かれた芸の世界」への回帰であり、ジャンルの出自からすれば異端も異端、掟破りと見えるかもしれない。
だけど、異端であり続けようとするあまり、正統の逆をいく異端、正統の逆をいく異端の逆をいく異端、正統の逆をいく異端の逆をいく異端の逆をいく異端、正統の逆をいく異端の逆をいく異端の逆をいく異端の逆をいく異端、正統の逆をいく異端の逆をいく異端の逆をいく異端の逆をいく異端の逆をいく異端、・・・を繰り返して何が正統で何が異端かわからなくなってしまったのが現況であるならば、「マイナス*マイナス=プラス」の考えではなく、


「これが正統だ」


というものを打ち出す。それこそが「すでにそこにある」自称アイドル*9をまとめて崩す異端の中の異端となり、ひときわ輝きを増す。
正統であるのだから、新たな定型となることができる。それを崩す新たなアイドルが生まれる下地ともなる。


もう一度ここから始めよう。
そんな、今はまだ小さな新しい波(ヌーヴェルヴァーグ!)がどんな潮流を生み出すのか。あるいは生み出さず伝説で終わるのか(苦笑)。
この世界はまだまだ興味深い。

*1:放送用VTRテープの価格が下がったのか、NGテイクを保存しておく余裕ができたのでしょうな。

*2:スキャンダル的なものとしては古くからあったけどね。

*3:ノスタルジックな雰囲気を持ったものに肯定否定両方の意味で「昭和」をつけて現在(現代)から遠ざけよう、目を逸らそうというこの時代の空気にはそれと似たものを感じないでもなかったり。いやヲレも80年代ノスタルジアとかちょっと合わない感じですけど。

*4:他に権威があったとするなら、70年代末期にアイドル歌謡を圧していた「ニューミュージック」かもしれないし、そもそも「歌謡曲」が大いなる権威でした。

*5:と、ヲレは思うんだよね。

*6:小林信彦『喜劇人に花束を』(文春文庫)P21

*7:ストレスが原因だそうですな。

*8:どちらも、「表現」のジャンルとして一段低く見る無意識の意識(≒偏見)があるのでしょうなぁきっと。

*9:アイドルはアイドルとして遇されることでアイドルたり得るわけだから、本来「自称」なんてのはありえないんだけどね。