穴党専科

从;・ゥ・从ノ<アベコーか!
さすがに18歳がそのツッコミはまずかろう・・・。



未だに僕にとってモーニング娘。最高のシングルは『涙が止まらない放課後』なのですよ。最近のは知らないんですが。
あ、なんだかおよそ1行ちょっとでドン引きされた空気を感じました。気にせず進めます。

そのうち消されるかもしれないから今のうちに見ておきな!



思えば、モーニング娘。がいわゆるアイドル歌謡というジャンルに対して久々に痛烈な批評を叩きつけた名作でありました。当時の僕がどれだけ衝撃を受けたか、懐かしの別ブログから当時書いたものをコピペしてみよう。閉鎖はしてないから閲覧は可能だけどリンクは貼らない。だって恥ずかしいもん。


「他人様からお金を取って歌を聴かせる以上、うまくて当然。またそうでなくてはいけない」とかいう考えてみれば傲慢とも思える物言いに、モーニング娘。は真っ向から挑戦し、聴く者をその狭隘な思想から解き放とうとしている。


歌が下手でも歌で表現することはできる。
下手でなければ表現できないこともある。


また一つ、モーニング娘。から教えられた。


2004年のモーニング娘。のテーマは、もしかしたら「『国民的アイドル』の看板を下ろす」だったのかもしれないと思っている。
考えてみれば、僕の知る限りではつんく♂氏がモーニング娘。を「アイドル」と呼んだことはない。常に「アーティスト」であると言い続けている。
もしも「国民的アイドル」になってしまったのが誤算だったとしたら。


批判や問題点の発見と指摘がなくなったらカルトでしかない。そもそも曲が悪いとか歌が下手とか売上が下がったといって怒ったり嘆いたり憂いたりしている人は「モーニング娘。には永遠にいい歌をちゃんと歌い続け、誰からも愛される存在であってほしい」と思っている純粋で熱いファンなのだ、きっと。

ヲレかっけー(笑)。こんなムチャクチャやってよく荒らされなかったね。いつもいつも変な方向にキレてばっかりいないで、これからもたまにはこういうトンガったものを書きたいなぁ。


実力偏重主義へのゆるやかな批判。如何に正しかろうと一つの考えに縛られていては、自分は良くても周りは息が詰まるぜ、というさりげないアピール。それが『涙が止まらない放課後』であったと考えるわけです。そのモーニング娘。を筆頭とするハローが現在は実力主義を強く印象づけているというのは、世の中というか業界とその周辺が実力軽視主義に変化したからだと思う。常に状況へのカウンターなのね。


思えばメジャーデビュー1作目から、モーニング娘。というのはカウンターとして状況を批評する立場を志向していたのかもしれない。
そもそもの基本コンセプトとして、
「沖縄アクターズ・スクール勢へのカウンター」
というのはある程度以上に意識されてたんじゃないか・・・というのがヲレの仮説でね。だからハローの歴史においてかなり長期に亘って北海道出身者が次々増強されていった、のじゃないかなーという風にも思うわけさ。
アクターズ・スクール出身の人々というのはルックスは文句のつけようがなく、歌はうまいしダンスはキレキレだしトークもいける・・・という完璧超人なわけで、それ故ヲレみたいな「不完全なもの」「成長途上にあるもの」をいとおしむ腐れマニアは未だにいわゆるアイドルの歴史に加えることを拒むわけなんだけど、そういうものが「クラシック型アイドル歌手の空白時代」にアイドルのようなウケ方をしたことに対し「そういうもんか?」という率直な疑問が作り手のどこかにあったんじゃないか。その疑問がロック・ヴォーカリスト・オーディション決勝落選組で企画ユニットを作ろうぜ、となった時「記号としてのアイドルをごっこ遊び的にやってみるか」という発想に結びついたんじゃないか。めんどくさいから証明は試みない。


ただ、これは僕も最近まで勘違いをしていたんだけど、モーコーの例の衣装で歌う姿ってのは厳密には「アイドルのパロディ」じゃないんだよね。フリフリもなきゃヘソも出ないなんてアイドルの衣装は、特にピンク・レディー以降には少なくとも主流ではなかったわけで(誇張)、ああいうスタイルは本人じゃなくスクール・メイツ等バックダンサーのものだったはず。
バックダンサーには真ん中で歌う人より目立っちゃいけないという厳しい縛りがあるわけで、あれだけ個性的な5人に個性の発揮を許さないスタイルをやらせたセンスは今もって興味深いよね。
なぜバックダンサーの意匠を採用したのかといえば、あくまでも5人はオマケ扱いであって、一番手はオーディションを勝ち抜いた平家みちよである、というヒエラルキー。黎明期には間違いなくあっただろうね。


前提に「(プロデュースサイドの読みによる)業界トレンド」があって、その逆の目に張る。わざわざギャンブル用語を使ったのは、けっこうなギャンブルだと思うから。
マーケティングでトレンドを判断してユーザーのニーズにあったサービスなりコンテンツなりを提供していったり、テンプレートに沿った売れセンものを送り出していけばビジネスとしては成功していくんだろうけど、プロデューサー氏だけでなくプレーヤー/クリエイター/イノベーター気質の大人たちが多いんだろうなぁ。誰かのテンプレートを使うんやなしに俺らがテンプレになったらええんちゃうの、みたいな。
そういうの大好きです。同じ「穴党」の匂いがする(笑)。いやヲレが穴狙いなのは根性が曲がってて欲の皮が突っ張りたおしてるだけの話なんですけどね。


このように「非実力派宣言」(!!!!)をひっそりと掲げてスタートしたモーニング娘。だったけど、一皮むけばその実態は実力派だったという多重構造があって、それは『ふるさと』で頂点を極める。そんでもってその『ふるさと』がオリコン順位対決で敗北する、というストーリーで「羊の皮をかぶった狼」としての物語をいったん終わらせる。
そして一気に大衆に愛される(いや、大衆が何かを愛したことなんかないとヲレは思うけど)キャラクター集団に変貌する。これがラブマ以降しばらくの形。個性あふれる4期メンバーはその申し子であって、逆に(わかりやすい)キャラクター偏重主義によって過小評価されたのが5期だったというのがヲレの見立て。異論は認める。というかそっちの方がきっと正しい。
つまり上で引用したブツを書いた当時とは異なり、誤算ではなく狙ったものが狙った以上にハマりまくって国民的アイドルと呼ばれる存在となった、と考える方がより自然だろうなというのが現在のヲレの考え。



面倒になったので以下略。このままだとモーニング娘。の歴史を総括しなきゃいけなくなりそうで、それは本来の趣旨じゃない。モーニング娘。というかハロー全体というか、つんく♂氏のプロデュースワークすべてというか、それらにはカウンター精神が通底してるんじゃないのかな、ということが本筋。それが現在では、「とにかく今だけの盛り上がり」でどうにかしてしまおうという流れへの反発として一生モノの芸を追求する方向へ進んでいるんじゃないかなぁ〜そうであってほしいなぁ〜・・・という願望と思い込みの話でしかないのよ。真面目に読んでもらっては困ります。



勘違いしたくないし、してもらっちゃ困るのは、僕がハローの人々(OG含む)に魅力を感じるのは実力主義だからではないのよね。たとえあらゆるスキルが素人程度であっても、やはり僕は魅力を感じ、心惹かれたはずだという確信がある。
どうも歌のうまい人が好きな人はそこばかり強調しすぎ、口パクが嫌いな御仁は逆の意味で口パクにこだわりすぎる傾向があるように思う。「口パクキター」とはしゃいでいるかのように口をきわめて批判する姿は、その批判じたいは至極真っ当なものであるのだけど、もしかしたらこの人たちは口パクが撲滅されちゃったら叩くものがなくなって逆に困るんじゃないか、というイヤミの一つもいいたくなる。
あと生バンド生バンドうるさい人も困るなぁ。バンドが入ることで会場によってはダンスのスペースが非常に狭くなることもあるだろうし、そもそもマイクやケーブルからアンプを通してスピーカーで音出すくせに何が「生」だふざけるのもいい加減にしろ(暴言)。いや、昔の話だけどものすごーく音のうすーい生演奏とか自分の好きな音を鳴らしてくれないバンドアレンジとかにガッカリした記憶があるのでね、「とにかく生バンドは素晴らしい」と盲目的に思い込むことはできないの。生バンドが好きな人と演奏をやってる皆さんにはごめんなさいね。


また話が逸れた。


人間的魅力を強く感じるからなのよ、僕がハローの人々(OG含む)を好きな理由は。
その魅力がどこから来るのかといったら、それは向上心だろうと思うわけ。
正直いってベクトルの向きが僕の価値観と合わない人もいないわけじゃないけれど、概ね自分が何者であるかの自覚を持って、常に向上心を持って仕事に対している。また、自分の欠点や弱さを痛感しながら、だからこそその自分を超えようとする真摯な態度もあるよね。
与えられた課題に対してやらないうちに「できません」とは言わないし、やってみてできなかったら本気で悔しがるし、できないままでは我慢できない。その振る舞いと心がこちらの心を動かしてくれちゃうわけ。


そんな愚直なまでの熱心さでもって活動をするから、当然の結果としてスキルが上がる。そういう順番だとヲレは思うんですが、どんなもんでしょう。
かわいさ至上主義もスペック最重要説もわかるけど、そこに固執しちゃうと他人の目には気持ち悪いものとしか映らないのよ。



℃-uteの話をすると。
何度でも書くけれど、この1年くらいの間に彼女たちが成し遂げたことは、もっともっと驚きと賞賛で迎えられるべきだと思うのよ。


ジェットスクランダーでもGパーツでも、マーキューリー回路でも超電子ダイナモでも2号ロボでもそうだけど、パワーアップというのは往々にして何かしらの新戦力や装備が「加わる(損失分の補充含む)」「増える」ことによって表現されることが多い。足し算だからわかりやすい話だよね。
人数という見た目にわかりやすいファクターが激減したところから始まるパワーアップというのは、とても珍しい。なんとかレンジャーの人数が減ったりライダーの△△フォームが使えなくなったりするパワーアップとかないでしょ。成功例というと、一応の説得力があったのは「能力の向上によってサナギマン形態でエネルギーをチャージする時間が大幅に短縮、または不必要になった」イナズマンFくらいでしょうか。しかも作品中では明確に語られない裏設定の類だったと記憶してます。
見た目にわかりにくい内面のヴァージョンアップ、というとマグネット・コーティングに近いかな? また話が逸れるけど、もっさり感の出てきた機械をああいう形で快適に動かそうって発想は今じゃ逆に出てこないよね(笑)。


上に書いたような、いっちゃえばハロー魂をわかりやすく具現化したユニットの一つじゃないかとヲレの目には映るのよ。
努力を努力と思わずごく自然にやってきた(こことても重要)彼女たちの進む道が間違ってないと思えるとき、その先には希望が、未来が見える。
時代の波の上で過剰に盛り上がることよりも、今の僕にはこちらの方が大切に思える。
今あるコレは間違いなく未来へつながっている。そう信じられないものは今の僕には不要なの。わかっていただきたい。



僕がまだ小さかったり若かったりした頃、人はみな見えない未来に胸躍らせていた。
時は流れ、いつしか誰もが見えない未来に怯えて生きるようになった。
けれど、僕にはまだ未来が見える。
いや。
初めから、未来はいつもここにあった。


それでは聴いてください。
つーか、跳ぶぞ!!