実験的思考と視点で鑑賞そして発見

事件といえば我らがベイスターズがサヨナラ勝ちしたことくらいしかなく(ヲイ)、体調も咳さえ諦めればそれほど問題はない(風邪は全快したのでそっち方面の薬は止めました。おかげで多少安く上がったw)、ということで特にネタのない一日となったわけですが、こういう時はDVD鑑賞だとキューラン2をPCのドライブに放り込みました。
ただし、今日は一つテーマを持っての鑑賞としました。

ずいぶん前にブックオフで買ってから何度も読み返しているゼータ劇場版(第一部)の解説本ですが、その中に気になる記述があるのです。

 主役・強者は上手(画面の右側)から登場し、弱者や敗者は下手に立つ。これは能や舞台劇でも鉄則とされており、人間の生理にかなったものである。実例は枚挙にいとまがない。
 本作でもっとも解りやすいのはラスト間際の空中戦だろう。アウドムラを追撃するモビルスーツは必ず上手から登場する。しかし、弱者であるアムロの輸送機は下手から迎え撃つように出現し、強者にダメージを与えることで逆転の意外性とアムロの弱者から強者への変化が印象づけられる。
(97ページ「移動感を重視した演出」より)


これは本当に「舞台劇でも鉄則」なのか、というちょっと意地悪な視点で見てみようと。


一番わかりやすいのは、劇中でのノリマツとイシゾーの立ち位置ですかね。
基本的に下手側に立っています。これは二人が「現実に立ち向かう」困難な立場にいるある種の弱者であることを示しているのでしょう。さらに、バカヒロの言葉に憤慨したノリマツがやや中央へ寄ることで、金縛りになってしまいもっとも弱い立場になったイシゾーがもっとも下手側に立つことになるというこの徹底ぶり。
先走っちゃいましたけど、7人が揃う夢の時間に「大人の世界の現実」という重圧を持って現れるルーム長やバカヒロが上手(強者の位置)から登場するというのも、ただそれだけで不穏な空気が自然に生まれるわけで、演出ってすげぇなーと舌を巻く思いです。
下手からの登場を禁じられたはずのルーム長が最後の最後で下手から出てくる理由は、いちいち書かなくてもご理解いただけるかと。


そして、引用文における「アムロの逆転」に相当するのがオニ来夏復活のシーンなわけです。
上手からのバカヒロの攻撃で、下手のノリマツとイシゾーがピンチに陥る。そこに割って入った来夏が、これまた下手から麻由が持ってきたペットボトルで猛攻撃。ついにはバカヒロを上手/下手どころではない「観客から顔が見えない位置」に追い込むという鮮やかな逆転劇となるわけです。ついでにいうと、悪意の塊のバカヒロが顔の見えない位置についたことで「匿名の悪意」のメタファーになるのもこれまたものすごい。


来夏といえば麻由とのカラミでの立ち位置も深いです。
人間が円くなった来夏はなぜか悪いコになった麻由に対して下手に立って受身でいるわけですが、麻由が本心を語ったところで位置が入れ替わり、元通りの姉妹関係が復活する感動がより強く印象づけられるわけです。


塩田さんすごすぎるよ塩田さん。


全部が全部このパターンに当てはまるわけではないんですが、あの短い劇の中でそれこそ「枚挙にいとまがない」くらい出てきますので、「このシーンでは誰が主役で、周りとのパワーバランスはどうなっているのか」というところに注意して見てみると、より味わいが深くなると思います。オリジナル寝るキューや携帯小説家Berryzゲキハロもそうかもしれない。あたるも八卦はどうだろう・・・なんて視点で見てみるのも面白いかもしれませんな(闇笑)。


『冬の怪談』は実をいうとそのへんで多少違和感が・・・映像作家と映画監督(≒演出家)はイコールじゃないってことですかねぇ。


「移動感」については富野監督が書いたこの本に詳しいらしいから、ちょっと読んでみようかな。2000円は本としちゃ高いけど、無駄にナンバーズとかロト6とか買うのに比べれば安い買い物かもね。