今日の優子りん

ハイ、間違いなく需要はほとんどないであろう『僕は円谷優子の歌が好きなんです。』のコーナーでございます。そのうち終わると思うんで適当に読んだり読まなかったりしてください。


早くも『COLORS』が届きまして、さっそく聴きました。
知らないうちに発表から19年も経った(!!!!)作品ですが、全然古びてないですね。もしかしたら僕が当時から成長していないのかもしれませんが。


「『個人的』を突き詰めれば突き詰めるほど普遍性を帯びる」
みたいなことを学生時代の講義で聞きました。周りの同級生は半信半疑でしたが、僕にはすぐ理解できました。なぜなら、その時すでに僕は円谷優子の(あるいは彼女を媒介とした康珍化の)作品に出会っていたからです。
燃えるような恋でなく静かな愛を育んでいこうとする女性、彼女の両親に交際を反対されている男性、落ち込んだ恋人に立ち上がってもらいたい女性、恋人との仲を裂かれた(と思われる)少女、愛する人の生まれた日を一番先に祝うべく共に夜を過ごす女性、・・・一つ一つ情景が思い浮かび、歌詞に描かれた「心」が伝わって、静かで深い感動を呼びます。
涙を流すだけが感動じゃない。安易に涙を流すことがふさわしくない感動というものもある。それを知るという体験をしたことを思い出しました。


勢いで全曲レビューでもやっちまいたいところですが自重して全体的な感想を述べるに留めておくなら、
「祈り」
のこもった歌が詰まっているという印象を持ちました。
だからとても静か。荘厳でさえある。でもどこかポップ。決して暗くない。耳にも心にも入りやすい。静かであるがゆえにしみじみと心が満たされ、元気さえ湧いてくる。


前から疑問に思ってることがありまして。
どうもこの国では元気のよい人が元気のよい歌(たとえバラード調であっても)を歌い、リスナーが元気をもらうという図式があるようですが。
元気ってもらうもの? 自分の心から湧いてくるものじゃないのかな?
歌い手がいきなり盛り上がってる歌を聴いても、僕に元気は湧いてこない。むしろうっとうしくて気分が悪くなる。だからJ-POPが嫌いなんですね、きっと。
ハロプロだって、つーかハロプロこそそんな歌ばっかりじゃん」という意見が返ってきそうですが、少なくとも僕は彼女たちの「歌」に「元気をもらった」ことなんて一度もないんです。きっと裏舞台では色々とつらいこともあるだろうに、それを表に出さず元気であろうとする彼女たちの「姿」に感銘を受けて、あくまでも勝手に「元気になっている」んですよ。
以上、余談終わり。


またこの「祈り」という言葉、その行動の距離感がすごく好きです。
直接励ますわけでも突き放すわけでもなく、相手(と自分)が今幸せであるならそれが長く続くことを、そうでないのなら幸せにたどり着くことを、祈る。それは相手なり自分なりを信じていないとできないことかもしれません。
℃-uteファン、ハローのファンとしての自分も「祈る」距離感を忘れちゃいけないなと思います。現場で直接盛り上げるのは大切なことだけど、彼女たちの夢の道程が輝きに満ちたものであることを信じて、自分がわずかでも力になれることを信じて、祈る。その祈りで行動を起こすなら、CDの大人買いだって「イベ目当てに必死だなw」と嘲笑されるようなことばかりじゃない。
現場だっていつも行けるわけじゃないし、考えようによっては「現場以外では関われない」立場であるともいえる僕たちと彼女たちの間にはどうしても距離がある。許されたシチュエーションでなければ「直接」何かをするということはできない。してはいけない。
だから、離れている時に何をするのかというのはきっととても大事。
そういう時、僕は祈っていたい。
ハイ、また余談でした。


そうそう、もう一つ思い出した。
僕というのは携帯音楽プレーヤー全盛で曲をシャッフルして聴くことも一般的になってきたこの時代にCDの「構成」「曲順」にこだわる前時代の遺物でもあるわけですが、そのきっかけとなったのも、もしかしたらこのアルバムだったかもしれない。
この時代の特徴的な作りなのかレコード会社の傾向なのか、あるいは意識してそのように作ったのか、曲間がかなり短く作られているのですが、曲が静かであることも関係するのかとても自然な流れに感じられて、強引なところがまったくない。この「優しさ」も特徴の一つかな。


こういう歌の数々をもっと手軽に聴けるようにならないものか、と心から思うわけですよ。どうにかならないものかなぁ。