謎また謎のドエーム

合同コンでBerryz仮面・キューティーレンジャーと死闘を繰り広げたミュージックバキューマー・ドエーム。横アリではあまりにベタなヒーローショー的悪役の登場に少なからぬ人数の観客が戸惑っていたように思えましたが、公演を重ねるごとに人気キャラになっていったようです。
考えていくとけっこう深いですよね、この生命体(なのか?)。そんなに細かい設定は作られていないかもしれませんが、「ないものは作れ」がマニアの伝統というもの。モビルスーツの型式番号だって、最初は公式設定じゃなかったんだぜ。



結局ドエームとは何だったのか、ずーっと考えていました(考えることなのか)。
で、結論。
何であってもいい。
音楽を、歌を楽しむ行為に水をさすものすべての象徴と考えていいんじゃないかと。
だから人によって様々な解釈があると思います。音楽を金儲けの道具として扱うビジネスマンかもしれないし、聴きもしないでわかったようなことを語って平然としている人かもしれない。CDを売るためにイベント応募券で釣る大人、まんまと乗せられて大量購入する客(爆)、歌い手のプライベートにしか興味がないような人、「あの曲は○○のパクリ」という話しかしない人、ステージを楽しみに来てるのか自分(たち)だけ騒いで満足しに来てるのかわからない一部の客・・・なんでもいい。
音楽(歌)を楽しもうというときに、あなたにとって一番の障壁となるもの。それがドエーム。
だからBerryz仮面とキューティーレンジャーは戦うのです。喜びを守るために。


そんなドエームに対抗できる武器は、やっぱり歌。音楽の楽しみを無力化する者を倒せるものは音楽しかない。
出典は忘れましたが、「夢を壊すものへの最大の抵抗は夢を見続けることである」という言葉を思い出しました。
仮面とレンジャーもなかなか渋いなぁ。


ドエームと仮面&レンジャーの戦いには、楽しい掛け合いもありました。なんだか近しい間柄のような、でも敵。
つまり「敵は敵だとわからないようにしているかもしれない」ということ。あなたの隣にいる人が、あなたにとって一番の敵かもしれない。ハードな設定だなぁ。深い、深いぞドエーム。



クライマックス。仮にもミュージックバキューマーを名乗るなら、初めて聴く『Berryz仮面&純情戦隊キューティーレンジャー』もその場で吸い取れなかったものかね。
たぶんそれが仕様だったんでしょうね。そうじゃないと話が終わらないから、というのは置いといて、何かデータベースのようなものがあって(iTunes Storeだったりしてw)そこからデータとして入手することはできても生で聴くものには対処できない、みたいな。
音楽はデータじゃない、データを入手してそれで足れりとするな、と書いてしまうと在宅批判みたいなニュアンスになってしまいますがそんなことはなく、それよりも「ステージで歌う」「観客と一体になる」ことの素晴らしさを前面に出した感じ。
歌の力、歌う者の力、歌う者を支えるものの力をわかりやすく示すために、ああいう弱点が用意されたんじゃないかと思います。


そして仮面とレンジャーは勝利した。でも戦いはこれで終わりでしょうか。
幸いなことに今回は別の誰かだったけど、次のドエームは僕やあなたかもしれない。
僕らはドエームになってはいけない。ステージの上の人に対しても、同じ客席にいる者同士でも。
人間の心こそが悪の源であり決して滅ぶことはない、というのはそれこそ石ノ森章太郎が自らの作品で繰り返し扱ったテーゼであり、だからこそ彼は多くの「悪と戦う者」をこの世に生み出した。
そこから着想を得た仮面とレンジャーを愛する僕たちは、自分たちの心にある悪と戦わなければならない。
僕の心にも、あなたの心にもドエームの芽がある。それが育つようなことがあってはならない。


あのドエームが最後の一体だとは思えない。もし、我々が音楽そのものの楽しさや喜びを見失ったとしたら、ドエームの同類がまた世界のどこかへ現れてくるかもしれない・・・。