魂の叫び

読み返してみて、このくだりだけはわかりづらかったかなーと反省。ブクマコメントでも指摘されたけど、非常に限定された例を出してしまったからね。
追記で補完してもよかったのだけど長くなったことだし、より多くの人の目に触れたいという自己顕示欲を発揮して新たなエントリ。今度は僕にしては珍しく(苦笑)「できるだけわかりやすく」を心がけたい。


℃-uteの現場において、僕の尺度から判断して「魂の叫び」と呼べるものはいくつかある。
まず『わっきゃない(Z)』Aメロの愛理コール。
℃-ute初のオリジナル曲の、前サビを除くと最初のソロパート。℃-uteを応援するんだ、という思いが一つになり、それが集約かつ象徴された叫び。今でもこの曲のときは初めて「℃-uteを応援しよう」と思った時を思い出し、℃-uteの歩いた道のりを一瞬脳裏に走らせてから叫ぶ。舞美ファンだけど愛理コール。鈴木愛理℃-uteの象徴の一つであり、見る者の魂に触れる何かを持っている。
次に『ディスコ クイーン』のなっきぃコール。
初めて経験したのはゴールデン初デートの初日。正直いってそれまでパート割ではあまり優遇されているとはいえなかったなっきぃの晴れ舞台。焦らされ続けたなっきぃファンの喜びと、「なっきぃを俺たちの声で支えるんだ」という思いの爆発を肌で感じた。
そして『夏DOKI リップスティック』Bメロの舞美コール。特に放課後ツアー横浜公演はすごかったと話に聞く。全力出しすぎて限界を超え喉をおかしくした舞美をなんとか支えよう、歌い終わらなければ下がって休むことも許されない(ステージとはそういう場所であり、だからこそ僕らはそこに立つ人をリスペクトする)のであれば、歌っている間は及ばずながら力を貸そうという熱い思いが迸っていたらしい。つくづくこの公演に入っていないことが悔やまれる。


共通点は、あるね。
同じ目的を持った熱い思いが一つになっていること。
叫ぶこと以外は何もできない状況下であること。
単純であること。


そういうものだと思う。思いが高まれば高まるほど、純化すればするほど、そしてできることが限られれば限られるほど、そこで出る叫びというのはギリギリまで単純化されるんじゃないかと思う。これがさらに進むと、さながら断末魔のごとき「命の叫び」というものになり、もはや単語として意味を持つ言葉は出せなくなる。


℃-uteそのものがそんな「魂の叫び」性を持っていると思う。
かつてはメジャーデビューを目指すという目的を共有し、今はさらなる前進を求めて一つになっている。
仲間が一人去っていこうとする時、結果的には何もできなかった。ただ自分たちがやらなければいけなかったことをやった以外には。
一つ一つの仕事を通して、自分たちの歌を伝える、パフォーマンスの精度を上げるというもっとも単純、かつもっとも大事なことに集中している。


そういう℃-ute自身の「魂の叫び」は、近い例だとレコ大。「ありがとうございます」しか言えず、あとはただ涙。あれこそが「ギリギリまで単純化され」たもの。


そういう叫びは、こちらの魂を揺さぶり、共感と感動を呼び、力となる。もう何度見たかわからないレコ大動画、何度見ても感動しない?
だから僕は舞美ファンでも愛理コール・なっきぃコールをためらわないし、舞美コールをする時は「たとえ機動隊が向かってきても退くものか」という気持ちでステージと対峙する。レコ大動画を見るたびに「このコたちにはできるだけのことをしたい」と思える。


賛否両論あったり、こんな風にネチネチ絡む奴、またそれに反論しようとする人が出てくる隙なんてないものなんですよ、真実の魂の叫びというものは。出てくる時点でそれはバッタモンなんです。
言葉は正確に使っていただきたい。気分で適当なことをいわないでもらいたい。変にかっこつけないでいただきたい。かえってかっこ悪いし。
なのでこれからはアタマかオシリに「(自称)」をつけていただきたい。わかりましたね。わからなくても勝手ながらこちらの判断でつけさせていただきますけれど。


かつて似たようなことに熱中していた僕にはわかる。
熱くなっているように見せかけて、その実ステージの上の人にも他の客にも、叫ぶ自分にさえも冷笑を浴びせているのはバレバレなんですよ。
いい年こいてアイドルに熱中しているダメな大人、という意識がどこかにあるのかもしれない。でもやめられない。だからひねくれる。ダメならダメらしくよりダメになろうと開き直る。それが伝わるから「ヲタキモイ」っていう反応を呼ぶんじゃないかなぁ。
そういう不健康な暗い楽しみ方ってのはいかがなものかと思うんだよなぁ。それ以前にホントに楽しいのかな。昔の自分を振り返ると、今のように心の底から楽しんではいなかったような、むしろイライラとかピリピリとかしてたような気がする。鬱屈したものをステージにぶつけてなんとかしよう、みたいな甘えというか依存心というか、そういうものがあったかもしれない。


「釣りは鮒に始まり鮒に終わる」と言われるように、楽しさを追求していくとぐるり一周して原点に戻っていくものだと思います。戻った上で徹底的に集中していくと、これがめちゃめちゃ楽しいし奥が深い。この楽しみをもっと多くの観客に知ってほしいなぁ。知ろうとしない人もいますけど、別に斜に構える必要なんかないんですよ。素直な気持ちを出せばみんな受け入れてくれますから。


「いい年こいてアイドルに熱中しているダメな大人」じゃなく「若いコの夢を応援する気持ちのいい大人」になろうよ。
僕らにはできるはず。