耳憂肩窮

从;・ゥ・从<じ・・・・・・ゆう・・・・・・けん・・・・・・きゅう・・・・・・?
(オ゚Д゚)<最近聞こえが悪いし腕も上がらなくなってなぁ
从・ゥ・从<四十肩? 
(オ゚Д゚)<いやたぶん仕事で重いものを押したり引いたりしてるから
从・ゥ・从<裏目裏目に結果が出たと
(オ゚Д゚)<誰うま


湿気はまだまだ多いもののかなり涼しい日が続いておりますが、暑い日(の、おもに午前中)に仕事している時、ふと気がつくと、
(オ゚Д゚)<すっすめー ジャーイアントロっボー♪
(オ゚Д゚)<たーてー ジャーイアントロっボー♪
と繰り返し歌ってることがある。これはもしかしたら小学生の頃の夏休み、学校からもらったプリントに書いてある通り「涼しい朝10時までに宿題をや」ろうとしてもうまくいかずただ時間を潰し、10時になるとテレビをつけてジャイアントロボ(あるいはアストロガンガー)の再放送を見ていた記憶がそうさせるのだろうか。



8月といえば宿題、宿題といえば読書感想文と自由研究がラスボスと意識に刷り込まれているのか、突然何らかの課題を自分に与えて遊ぶことがある。覚えているなかで一つ挙げると、出会い系サイトに片っ端から登録してどうなるか試してみよう……なんてこともやりましたな。ポイント購入で無駄遣いしたり迷惑メールが大量に届いたりするばかりで、ろくな目に遭いませんでしたけど。


今年の自由研究はどうしようかな、と考えてみたけど、今の僕には春から続く「あの歌」への反感、怒り、憎しみしか課題はない。


(オ゚Д゚)<ガムシロや〜さい炒めGOHAN♪
(オ゚Д゚)<LA LA LA LA・・・・・・ガムシやRICE♪
州´T v T)<激しくマズそうなんですが



この件を解決しないと他の課題が見えてきそうにないのだけど、もうとにかく何から何まで気に入らないものだから、心理士の先生にも*1「全部吐き出して、その後は(不満や怒りの感情を)手放しなさい」とアドバイスされているにも関わらず、吐き出しても吐き出しても怒りが湧いてきて、どうにも手放せそうにない。


理解してもらうことはあきらめた。
考えてみれば、多くの人が僕のいうことを理解できない(する気もない)と想像できるように、僕もあの歌を愛好する人々が、その部分においては理解できない(する気もない)。残念ながら℃-uteメンバーも含めて、だ。
それでいい。僕がアレを気に入らないまま存在することによって、そして多くの人がアレを支持することによって、team ℃-uteという集団が単一の感性に支配されることを回避できるのではないか。それが民主的ってものだ。単一の感性で支配したいと考える全体主義的な人には(いるとしたら、だけど)不愉快かもしれないけどね。


俺の、誰かの、特定の個人の思い通りにいくとは限らない、そんなことは滅多に起こらないからこそ、この世界はきっとWonderful World。
从;・ゥ・从ノ<Juice=Juiceかよ!
もうね、いっそJ=Jファミリーに入れてもらおうかと真剣に考えたよ。宮崎ゆかにゃはかわいいし、kntmさんとかあーりーは美人だし。楽曲のお気に入り度でいっても、間違いなく今年日本のメジャーレーベルからリリースされた大衆音楽で三本の指に入る名曲*2「Wonderful World」を持つJ=Jは最高だからね。
そう、認めなきゃいけない。℃-uteが、いや℃-uteの周りの者たちが、10周年に浮かれ、作品の態を成していない代物を有難がっている間に、Juice=Juiceは、その楽曲の完成度とメンバーの歌唱力(のバランス)において℃-uteを凌駕した。もはやハロプロトップランナーといっても過言ではないだろう。
後輩に抜かれた。℃-uteの11年目はここからスタートした。したのかな? した感じがあまりしないのは、「11年目のスタートだ!」と感じさせるリリースがないからかな。10周年のお祭り騒ぎを終えて、さてここから何をやろう? となって、何をやったらいいのかわからなくなった。スタッフ間にそんな気分があるのかとも邪推してしまう停滞ぶりと感じる。この停滞感、閉塞感を打ち破るものが欲しいよね。


やっぱり僕には℃-uteなんだよね。楽曲がありえないレベルの駄作、愚作であっても、℃-uteはだいたいにおいて僕を満足させる(アレは除く)。℃-uteでしか味わえない満足感のレベルがあって、そこには他の女性アイドルやヴォーカル&ダンスグループは到達できない、と思うんだ。


それはそれとして。
リリースから5ヶ月にもなろうというのに、これほど怒りが持続するというか湧き出し続ける、一生許したくないほどの憎しみを抱くというのはフツーじゃないよな、とは自分でも感じるのだよ。
カウンセリングという場は、自分の心のバランスを取り戻す作業であると同時に、僕にとってはクライアントという立場から人間心理を勉強する場でもある。そういう場でもってなんとなく得たものから考えるに、
「これほどまでの怒りの持続や増幅というのは、何らかの心的外傷*3を刺激されたことによるものだろう」
という仮説に至った。
その仮説を証明するのが科学的、学術的な態度なのだろうけど、ここはそのプロセスをすっ飛ばして、その心的外傷とはどんなものなのか、に着地する。
正直、ここから先を書くのは気が重い。証明できない舞台裏のことはいくらでも捏造できるから信憑性に乏しく、したがって信じてもらえないだろうけど、ここから先を書くのが嫌で、この文章そのものを書き始めるのに3週間かかっている。具体的にキーボード打つ手が止まるし、無理して打とうとすれば気分が悪くなる。
これが心的外傷というものなのだ。そこに触れるような言動、行動は、たとえ心底それをしたいと思ってもできなくなる。意思と行動のバランスが崩れる。身体症状が現れる。
迂闊に他者がそこに触れると、理不尽な攻撃を受けたと受け止め、心が安定を失う。自分が理不尽な攻撃を受けた「被害者」だと感じると、相手に反撃したいという気持ちを抑えることができなくなり、攻撃性が際限なく高まる。パニックの一種と考えればPTSD心的外傷後ストレス障害)の発症と考えることもできるかもしれない。できないかもしれないけど。
気にしなければいい、という問題ではない。気にする/しないという意識や意思でどうにかできるならいいのだけど、自分で自分を止めたり抑えたりすることのできない反応を起こすものなのよ。そこを理解できない人は、うかつに他人の心の問題に踏み込まないのが分別というものです。


おっと、話が逸れた。逸れたというのは予定にない方向へ進んだというだけの話で、僕にとって予想外の形で、僕がアレに対して怒りを抑えられない背景を説明できたから、かえってよかったのかもしれない。こういうことが起きるから文章を好き勝手に書くのは楽しい。
では。
アレは僕の心のどんな傷に触れたのか。


僕は、他人から見れば極度のアイドル好きである。アイドルちゃん。まぁ女性だね。
僕という人間は、女性に受け入れられることを強く強く、猛烈、強烈、苛烈、激烈に求めている。それこそが人生のすべてであるかのように。

フランス書院文庫編集部 @franceshoin1985 15年4月1日
【極度の女好きの原因】一説では、生まれてから1年6カ月の間、母親と十分にスキンシップを得られなかった場合、男性としての人間形成ができず、自分の存在基盤を他人(女性)に求めるという
https://twitter.com/franceshoin1985/status/583276428449431552

日付を見ると信じていいものかどうか迷ってしまうが、性愛小説の編集部が発信するものならまったくの嘘でもないだろう、と思えた。
というより、このツイートを見た瞬間、
「これは俺のことだ」
と直感したのだ。
自分の存在基盤を女性に求める男。これが僕。
ならば、「男性としての人間形成ができ」ていないということであるし、元を辿れば「生まれてから1年6カ月の間、母親と十分にスキンシップを得られなかった」のかもしれない。母親に確認しても「そんなことはない」と答えるだろうけど。確かにそれはそうだ。母は母なりに出来るだけのことをした。ただそれが子供であった僕が満足できるものではなかったというだけだ。
これがすべての出発点となる心の傷。


成長すると、やがて学校に通うようになる。そして第二次性徴期を迎える。
この時期、自分の存在基盤を女性に求める僕は、逆に同級、同期の女子から徹底的に拒絶される。
それはそうだろう。多感な時期に、赤ん坊が母親を求めるように女性からの受容、許容、承認を求める男が目の前にいたら、軽く想像しても気持ち悪く感じるのが自然だとわかる。
わかるけど、当人にとってそれは、いってみれば「母親のいない世界に放り出された乳児(幼児)」の精神状態に置かれるということであって、控えめに表現しても地獄だ。他人に地獄を味わわせるのは明らかに「いじめ」なのだから、気持ちは理解するが実際行われた行為は許さない、許されない。
僕を拒絶する女子は小学校高学年時にクラスから発生して学年中に広がり、中学では部活などのタテ関係の影響で学校中に広がる。僕にしてみれば、一日の大半を過ごす学校という場において存在基盤を求める対象のほとんどすべてから拒絶されるということは、世界のすべてに拒絶されるに等しい*4


そんな僕が救いを求めた対象が、女性アイドル歌手。
世界のすべてに拒絶された僕の存在を受容、許容、承認してくれるのはこの人(たち)しかいない、という気持ちだったのだろう、今にして思えば。現実の世界に拒絶された僕の心の行き場は、テレビの向こうの非現実しかなかったのだ。
上で「他人から見れば極度のアイドル好き」と書いたけど、好きというより「他に選択の余地なし」だったというのが本当のところなのかもしれない。
アイドル現場に行く、アイドルを語る、考える。そんな時間だけしか僕の存在を保障するものがない。無残で悲惨な人生だなぁ我ながら。
ところが、そんなアイドルちゃんからも、僕は拒絶されてしまうのであった。


1986年4月8日。


自ら命を絶つ行為というのは、世界を破壊する代わりに世界を知覚する自分を破壊するわけだから、世界すべての拒絶だ。そこには当然僕も含まれる。僕が存在基盤をかけて臨む世界、場所の拒絶は、僕を拒絶することに他ならなかった。僕にとっては。
この突然の出来事は、僕をますますアイドルにのめり込ませる、執着させることになった。
僕を拒絶しないアイドル(女性)を求めて。
その果てにたどり着いた女戦士・・・・・・おっと、℃-uteでも、僕は「拒絶」を経験する。


℃-uteの10年。
僕にとってそれは、常にマイナスからの挽回の道程だ。それはグループ名を戴くよりも前、Berryz工房への選抜漏れ=デビュー見送りから始まるのだけど、もっとも大きなマイナスと感じるのは、やはり人数が徐々に減っていったこと。
村上愛を、有原栞菜を、梅田えりかを失ったマイナス。
梅さんが卒業する時には、あのヤジマ宣言が示したように、これをさらなる成長のためのジャンピングボードにしようという意思があり、紆余曲折はあったものの実際に飛躍的な成長を遂げた。これはいい。
復帰を願いながら叶わなかった栞菜のことも今なお胸を締め付けられるような重苦しい記憶だけど、何といっても、後に「村上ショック」と呼ばれためぐの件。
あまりにも突然に、完全に僕らの前から姿を消したため、僕の心は、これを「死」と同じものだと受け止めた。
「僕と君とが別れて、もう二度と会えないとしたら、それは君か僕かのどちらかが、死んでしまうのと同じこと」
何かで読んだ、そんなような言葉が頭にずっと(今も)残っているせいかもしれない。
自ら選んだものではないとはいえ、「死」と同じ、というところから、かつてアイドルちゃんから受けた「拒絶」の記憶を掘り起こされ、そこからどんどんと過去の傷がフラッシュバックしていく。
僕にとって「村上ショック」の記憶とはそういうもの。
僕が℃-uteの10年を思う時、絶対に避けて通れない、通りたくないと意識しても心が勝手にそこを通ってしまう、最大の事件。
いや、違うかな。
僕にとって℃-uteの10年とは、流行りの表現を使うなら、「めぐロスの9年」のことなのだ、きっと。


僕の、女性に関する、イコール、僕の存在基盤(の脆弱さ)に関する心の傷は、ざっとこんなところだ。ここまで書くのに2週間。それほどまでに、心に負った深手と正対しそれを言語化する作業というのは大変なのだよ。向き合いたくないからPCに触れなくなるのよね。


傷ついたままの心で、ずっと℃-uteに対してきた。℃-uteに関して受けた傷は、℃-uteでなくては癒せないと思ったからだ。
メンバーの結びつきが強い℃-uteは、その数を減じるたびに存在基盤が揺らいで、そのたび新たに固めてきた。そんな姿を、僕は自分の手本としていたのかもしれない。
触れると痛む心の傷は、いちばん敏感な部分。そこを常に℃-uteの前に晒し、そこを通して℃-uteを見つめ、℃-uteはそこを優しく包んでくれた。そんな形なのかな。


来し方を振り返るようなフレーズが散りばめられた歌詞が、僕の「めぐロス」を刺激して、そこから芋づる式に次から次へと心の傷が口を開けた。その痛みを攻撃と受け止めた僕の心は、あの歌を許すことができなくなった。
そんな図式。もしかしたら、この10年をずっと見ていた人が詞を書いていたら、もっとデリケートというか配慮のあるものになったかもしれない。
最初から人選を間違えていた。冗談乃風のショッパイ君は、見てもいない℃-uteの10年を総括した歌詞を書く人材として不適格、不適任、不適合、不適切だった。そう僕は思うよ。
健康問題でいつもの人に頼めなかったのなら、いっそメンバーが原案を出してプロの作詞家にまとめてもらえば、もっと違った、僕も心から感動できるものができたかもしれない。そういうことをやらないで、仮面ライダーのOPテーマをやったミュージシャンを安直に起用したテレビ局は、やっぱり許せないな。


℃-uteメンバーを含め、あの歌を聴いていられる人たちというのは、どこかのタイミングで「めぐロス」を歴史の中に埋められた(あるいはそもそも村上愛の存在を体験していない)。僕は埋められずいつまでも「めぐロス」を続けた。
それはきっと、乳児期〜幼少期の精神的な「母ロス」、母の不在に端を発している。とはいえ実際の母個人には何の責任もない。


ただ、この「めぐロス」にまつわる心の傷の連鎖反応、ひょっとしたら改善されるかもしれない。
10周年記念コンサートのオープニング、「まっさらブルージーンズ」を歌う5人の後ろのスクリーンには、8人の姿。
これは、「8人でステージにいる」とも解釈できる。というか僕はそう解釈した。
そして、客席に、元メンバー3人がやってきた。
もちろんそこには村上愛も含まれる。
つまり。
村上愛は生きていた。死んだわけじゃなかった。
「めぐロスの9年」は、終わった。
だから、「アイドルの死」の過去を思い出すことも、連鎖反応を起こすことも、これからは押さえられるんじゃないかな。
今になってようやく気づいたのだけど、さっきから実在の村上愛さんにとってはずいぶんと失礼な話をしているな。申し訳ありません。


心の傷とは切り離せそうだけど、やっぱり気に入らないものは気に入らない。気に入るものにはならない。どうしたものか。


「『ないものは作ればいい』って言葉あったよな?」


そんな声が自分の中から聞こえた。心理士の先生からも、
「自分で書いてみたら?」
なんて言われてたっけ。


やってみるか。
恥ずかしながら、若い頃に作詞の通信講座にお金払ったことあるし。教材揃えたら満足しちゃって、課題の提出とか一切しないでフェードアウトしたけど。


こんな感じだったら俺の心の傷は痛まなかった、というものを作ってみよう。それは僕にしかできないことだからね。
ただ、残念ながら僕には何かをゼロから作る能力がない。
ならば、すでにある歌詞を、プラモデルを改造するようなイメージで作り変えてみたらどうなるだろう。なんか面白くなりそうな気がする。改造というより、『ロマンアルバム プラモ編 アニメ・プラモ・マニュアル』(徳間書店、1982)の上級編、未だ1/144キットでは(1/100も?)やっていないカメラアイ点灯をやってのけた旧1/144ガンダム、背中以外は自作もしくは大改造したアニメスケール・イデオン、・・・・・・そんな感じの、ほぼフルスクラッチになりそうな気もするけどね。


できれば8月中、というか、最後の面談までに仕上げて心理士の先生に報告したかったんだけどね。ま、夏休みの宿題の提出が遅れるのは僕の得意技。遅くても秋の天皇賞までにはどうにかしたいし、なんとなく新曲の情報も出てきたことだし、最新シングルなうちに仕上げるのが形としてはキレイかな。本当に最後の最後のラインは年内。
休みの日にしか時間は取れない。あまり寝てばかりもいられないな。

*1:相談しているのだよ実は。

*2:あと二本の指は、それぞれ好きなものをどうぞ。

*3:トラウマという言葉は「イヤな思い出」程度にまで薄められ、軽くなった感があるから、あえて四字熟語にしてみた。

*4:それでも登校拒否など起こさず毎日通っていた。それにも理由はあるのだけど、長くなるし本題と離れすぎるから今回は書かない。今後も必要に迫られないかぎりたぶん書かないんじゃないかな。