俺様2014

晦日となれば振り返りをやらないわけにもいくまい。振り返るほどのものがあるのかどうかは別として。



今年の現場は2月のBDイベに4月の五反田、℃-uteの日と10月の大宮、これがすべての4公演。少ねぇなぁおい。
仕事やその他の予定との折り合いがうまくいかなかったというのが表向きの理由だけど、80〜90年代には2週間に一度は現場に行かないとストレスで機嫌が悪くなった*1のが、変われば変わるもんだ。


もう丸2年あまり受けている心理療法の影響もあって、自分でも知らないうちに陥っていた「アイドル依存」からいつの間にか抜けたものと思われる。
今の僕は、ネットやアイドル現場だけを自分の居場所としなくてもいい。仕事も(疲れるしあちこち痛めてるけど)楽しいし、職場の人間関係も良好。まだまだ自分の心理面に問題はあるけれど、なんとなくいい方向には向かってる、少なくとも悪い方向へは向かっていない。毎日楽しいよ。
日々が充実しているから、℃-uteに対しても「行きたい時、行ける時に現場で楽しんで、気が向かない時や都合がつかない時は無理に出かけない」という、考えてみれば当たり前かもしれない態度、今の自分にとって無理なく、楽しみ続けられる距離感を保っている、いられるという実感があり、これからもそうしていける自信がある。行けない時に行かないことも、長く「現場を楽しむ」一つの方法かもしれないね。


今年、℃-uteのDVDやYoutube動画を見る回数は激減した。CDはほとんど再生してないんじゃないかな。そしてライブは年に4回。
熱心な人からすればお話にならないレベルかもしれない。けれども僕は「自分は℃−uteファンである」といつでも胸を張る。俺が℃-uteファンかどうかを決めるのは他人じゃない、俺自身だからだ。


心理士の先生に言われたかアドラー心理学関連の本で読んだか忘れたけど、


「あなたはあなたの人生の主役だけど、セカイの主役ではない」


という言葉が僕の心に刺さっている。
セカイの主役になりたい者が、なれそうな対象を見つけて関係依存になる。それがオタク、ヲタクの正体なんじゃないかと思えてならない。僕がそういう人間だったからだ。
その端的な例の一つが、他者への要求が多い者、自分の労力は少なく他者にそれを多く求める者、自分は変わらず他者を変えようとする者。
現場で、ネットで、あなたの周りにもいませんか? 送り手の大人たち、あるいはヲタクに文句の多い人*2。それは正に他者を変えようとする者であり、セカイの主役になろうとする者。それぞれが主役を務めるそれぞれの人生が集まってセカイが出来上がっていることを理解できない者。それが醜いものであることは、あなたも十二分に理解できていることと思います。


今年、まったく個人的に印象的なことがありまして、長らく語られてきた「コンサート終演後の着替え問題」について、主催者に着替えスペースを要求しなくても一人ひとりが客席でもできる「脱がずに着替える方法」というのに気がつきまして、個人的にこの問題は完全に解決しました。でも発表しない。つーか今まで思いつかなかった自分がバカに思えるくらい簡単なことなので、皆さんも考えてみてください。一度現場でやったことがあるので、知ってる人もいるかな。
「主催者は着替えスペースを用意すべし」「着替えはトイレで」「女性もいるんだから半裸になるな」……いちいちごもっともなんですが、なんかそれらのいちいちが「他者を変えようとする」言葉に思えて、話に参加する気がまったく起きず、冷ややかに眺めていました。これで僕はそのステージを脱したので、そこに留まりたい方々*3はどうぞご自由に。



他人は変わらない、自分が変われ。


言い回しはいくつかあれど、そんな言葉も知りました。
僕の経験でいうと、アップフロントは客のいうこと聞かないから、そういう連中とどう付き合うか、あるいは付き合わないか、自分の考え方を工夫しないといけないな、なんてのもその一つ。
ただねぇ、自分を変えるってのもけっこう難しいんだ。多くの人にとって、自分こそが普通、基準、一般的、正解だからね。この意識を変えるのは大変だけど、対象への向き合い方、視点を変えるだけでも見えるもの、感じるものは変わってくるはず。
自分の中に複数の視点を持ち、異なる価値観を理解し受け入れることは自分の人間的成長にもつながると思うのだけど、普通である自分に固執する人ほどそれをしない。他者にそれを要求する。自分も他者も自ら変化するのは難しいことだから、俺は難しいことをやらないがお前はそれをやれ、と命令するに等しい。これは他者の考え方、心に介入することだから、一種の暴力でもある。
しばしば、その要求を行う際に「こちらは客だ」「アイドルはファンの払うお金で成り立っているのだから」という言葉が出てくる。俺が金を払っているのだから、俺はお前の心に介入して当然、といっているのである。金で人の心が買えると思っている。醜い。汚い。
確かに、金で人の心は買える。だがそれは、金で心を売り渡す人間の心に限る。アイドルちゃんに、一人の尊厳ある人間に「金で心を売り渡す人間になってね」と願う者がいるのだろうか。いるんだろうな実際。そういう人にとって、アイドルは色々な意味で人間じゃないのだろうから、僕とは相容れない。


最近はヲタクであることに誇りを持っちゃう痛い人も増えてるようだけど、僕からすればヲタクなんてのは上に挙げたような最低の存在なので、この一年は自分からヲタク的な視点、思考、他者との向き合い方を追い出す作業を続ける一年だったともいえる。
現場が少なくなったのもその一つかもしれないね。なんだかんだいっても現場の空気はいいものだし、アイドル現場は「受け入れられる」ためのハードルが低いから居心地もいいしね。
でも、それじゃダメなんだ。
それでは僕は、僕の人生の主役として輝けない。
己の人生の主役として輝けない者は、自分の人生のみならず、ステージ上でも主役として輝くアイドルちゃんと対峙しつづけられない。


(オ゚Д゚)<俺は俺の人生の主役だ!
(オ゚Д゚)<そして俺の人生は、あの矢島舞美にも不可能な唯一無二のものなのだ!


そう胸を張れるようになることが、これからの僕の目標になるのかもしれない。たまには思い出そう。



そうそう、何日か前急に思いついたんだけど、「現場」ってのも何か別の表現がほしいね。うまくいえないけど、遊びに行く場所を「現場」と呼ぶことで、変にストイックになってしまったり、何かプライドを賭ける場所という意味合いまで含んでしまったような気がしなくもないのよ。


これまた先日Twitter上で見かけたんだけど、
「公共の場所とは、皆が少しばかりの不自由を受忍することで、多様な人々のアクセスを可能にする場所である。したがって、公共の場所で“皆が快適に過ごす”というのは本来ありえない」
そんな意味合いの言葉がすごく印象に残ってる。これもまた僕にとっては新しい視点で、自分を変える材料の一つになるだろう。

*1:いわゆる「アイドル冬の時代」でも、探せばそれくらいの頻度で何かしらあったのだ。ほとんどが制服向上委員会がらみだったけど。

*2:この文章そのものがヲタクに文句いってるのだけど、まぁ大目に見られたら見てくれたまえ。

*3:問題意識の高い人というのは、一歩間違えると「問題を探して回る人」「問題が起きることを望む人」「問題の解決を望まず、問題が解決しないことを望む人」になってしまうので気をつけましょうね。